Books (環境と健康Vol.19
No. 3より)
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アイラ・B・ブラック 著(長野敬、太田英彦 訳) |
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青土社、2,730円(税込み) |
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最近、脳科学が流行っている。筆者が高校生だった数十年前に第一次の脳ブームがあり、東京大学の時実利彦先生による「脳の話」(岩波新書)などが広く読まれていた。現在は第二次か第三次のブームらしいが、これまでと異なる点は、脳関係の膨大な出版物の量であり、脳を鍛えるというドリル類の氾濫であり、テレビや週刊誌で人間と社会を論じる「脳文化人」の跋扈である。公的な研究費(すなわち税金)を使い脳を研究している身からすると、脳に関する社会的な関心が広まり、脳科学への期待が高まることは、むしろ望ましい。しかし、現在のブームを支えている情報や自称脳科学者の言動を見聞するたびに、望ましいなどとは言ってられない気になる。膨大な出版物のほとんどは、科学的根拠に乏しい単なる作り話であり、算数や漢字のドリルが、一時的に脳を活性化させていることは間違いないにしても、本当に脳を鍛えているかどうかは未知である。また脳文化人の類は、実際に脳の研究をしているわけではないため、脳について書かれた論文や本から得た間接的な情報に基づき、いともたやすく人間や社会を論じ断定してしまっている。現在、脳について間違いなく言えることは、まだまだ未知だということであり、研究が進めば進むほど、未知な部分がどんどん現れてきているということである。遠くから眺めたときは低く単純に見えた山が、しだいに近づくにつれ、そびえ立つほど高く複雑な姿を見せてきたという状況である。 このようなゆがんだブームの中で、どうすれば良質の脳科学の本を選べるのか、学生からもよく受ける質問である。たぶん、絶対的ではないが、考え得る最善の方法は、著者について調べることであろう。このような時、インターネットは便利である。検索エンジンに著者名を入れれば、もしその人が脳の研究者であれば、研究室のホームページにアクセスできるはずであり、そしてさらに実際に脳を研究し成果を出していれば、これまで行なってきた研究内容と出版してきた学術論文(英文)を見ることができるはずである。それらが見つからなければ、その著者の本は買うべきではない。 前置きが何とも長くなってしまったが、ここで紹介する「脳は変化する」の著者アイラ・B・ブラック教授は、脳科学では著名な研究者であった。「あった」と言わざるを得ないのは、今年の1月に急死したからである。神経回路網を形成するシナプス可塑性の第一線の研究者であり、その電気生理学と分子生物学に関する数多くの成果を産み出した人物の死は、本当に惜しまれる。本書は、そのブラック教授が一般の読者を意識して書いた良質の脳科学の本である。シナプス可塑性に基づく神経回路網の発達、増殖、衰退、死、回復、再生について、かなり高度で詳細な内容を維持しながら、きわめてわかりやすく書いている。翻訳も適切である。そして、そのような脳の変化が関わる実例としてアルツハイマー病を取り上げており、1人の患者さんの発病と進行を、狂言回しのように各章の冒頭に挿入している。それが副題にある「ある銀行家の悲劇」である。この挿入部分の記述の方が、より強く印象に残るかもしれない。そして、本書の各章に書かれているように、神経回路網の構造や働きについてきわめて詳細に解明されていることは間違いないが、それにも関わらず、この悲劇的な病気を予防し治療する手段を現在の脳科学は全く持っていないという厳しい現実も、より強く心に残るかもしれない。それほど脳は難しい。本書を読めば、脳がわかれば人間も社会も全てわかります、などという呑気な似非脳科学本には、手を出す気にならないであろう。 櫻井芳雄(編集顧問)
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