Books (環境と健康Vol.19
No. 2より)
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山下柚実 著 |
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岩波書店 ¥2,200+税 |
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本欄では新刊書の書評を原則としているが、京都健康フォーラムで現在取り上げている「五感」シリーズとの関わりで、敢えて発行後年余を経た本書を取り上げる。本書は週刊誌に2002年4月〜2003年9月に亘って随時連載した「シリーズ 五感は警告する」5章分を触覚、嗅覚、聴覚、味覚、視覚の順に加筆修正し、新たに第6章として「喪失から再生へ」を書き下ろしたものである。 第1〜5章では、それぞれここ数年の東京を中心とした社会で取材された「五感喪失」の光景が生々しく描かれ、東京文化の対極である京都文化に浸っている評論子には驚きの連続であった。確かに本来の「五感」(旧五感)の喪失ではあるが、情報文化の新しい「五感」(新五感)の誕生かもしれない。画像の「ざらざら」感を体験させる触覚マウス、西洋風足裏マッサージ、携帯電話の受信に反応して匂いが漂う「携帯くんくん」、料理番組に匂いの出るテレビ、周波数を可聴域に限定したCD音源とそれを補正するスーパー・オーディオCD、合成味のファーストフード、人工自然の立体画像「3Dコンソーシアム」など、いずれも今までの私共「旧人類」世代の体験しなかった新世代「新人類」の五感経験(新五感)である。本書は「新五感」によって喪失されていく「旧人類」の「旧五感」を再生するために、(1)五感の気付き、(2)五感を巡る環境整備、(3)五感経験の共有化を「新人類」に求めている。そして最近続発する沢山の不思議な出来事や深刻な事件の背後に「新五感」によって喪失されつつある「旧五感」からの警告を感じるところに、「五感再生」への手がかりが見つけ出せる筈だと、最後の第6章で締めくくっている。 五感を取り上げる順序も適切で、まず第1章の触覚が他と異なるところは、相手に触れれば相手は必ず触れられるという感覚の双方向性である。折角裸のサルとしてスキンシップを拡大した人間から携帯電話を操る親指族への変身を嘆いている。ぴたりと肌を子どもに密着させて抱けず腕だけで抱く母親の子育てを案じている。手に馴染んだ箪笥を失った真新しいホームで感じる痴呆老人の不安に共感している。 第2章では自然体験を一切排除した無臭化(臭い消し)社会と香り(合成香料)ビジネスのアンバランスを指摘している。そして嗅覚障害者の日常から、人と匂いとの「幸福な関係」を再認識して、「匂いの記憶の引き出し」を老人介護に活かすことを提案している。 第3章の聴覚の音相理論によれば、「ハリーポッター」に登場する女主人公「ハーマイオニー」と「千と千尋の神隠し」の「チヒロ」は同じ音の表情だとのことである。景色のランドスケープに対して、目を閉じて耳だけで捉えた風景(環境音)をサウンドスケープと呼んでいる。古代人は環境音として鳴動する山を捉えたとの事である。熱帯雨林はCDの可聴域22kHzをはるかに越えた100kHzまでの超高周波音を含む多様な音の自然食品であって、東京都心のサウンドスケープは10kHzに満たない必須栄養素まで欠いた合成食品で、まさに音の栄養不足と捉えている。著者は遠くのかすかな祇園祭のお囃子に季節を感ずる京都の文化に「いやし」を感じ、神様の声(心の声)まで聞くことの出来た古代人の耳の復権を唱えている。 第4章の味覚については、自分の舌で無くマスコミで演出される飽食や健康食品と無添加食品という「食のファシズム」による崩食を嘆き、季節や行事との関係の中で、人と人との関係の中で演出される「ストーリーのある食卓」の復権を唱えている。京の町家の暮らしが見直されている。 第5章の視覚では、かって樹上生活で優位であった霊長類の立体感覚が失われ、テレビ文化の中で立体視の出来ない子どもの増加を嘆いている。特に興味深いのは、長野県善光寺の真っ暗闇の「お戒壇巡り」の体験を、視覚障害者の誘導によって人工の暗闇の中を歩く「真っ暗な中での対話 ダイアログ・イン・ザ・ダーク」で再現する試みである。ここでは、大人より明らかに子どもの方が慣れが早いとの事である。暗闇の世界で働く五感、それはまず何よりも心の不安と恐怖の感覚(心の触覚)であり、周りの空気感(触覚)であり、ほのかな体臭(嗅覚)であり、かすかな息の音(聴覚)であろう。一人で佇めば、体臭も息の音も無く、真黒闇の世界に青や紫の心の色が、あるいは一筋の後光が映るかもしれない。そこではきっと快い内部感覚が体験されるであろう。座禅を組む高僧の冥想の世界、あるいは良寛の対した「虚空」の擬似体験が実感されるかもしれない。一歩善光寺の門外に出て高原に向かえば明るい色と形の視覚の世界が迎えてくれる。目を閉じれば、そよ風を感じ(触覚)、小鳥のさえずりや遊び戯れる子供の声が聞こえ(聴覚)、草いきれの甘い匂いを感ずる(嗅覚)。目を開ければ透き通るような青い空に真っ白な雲が遠くに浮かんでいる(視覚)。心地良い大地の鼓動を足裏に感じて山を降り(触覚)、里に近づくと御幣餅の暖かい匂いが漂い(嗅覚)、宿では山菜料理が山の爽やかな食感を運んでくれて(味覚)、人は幸福感に浸る。このような里山の五感によって、あるいは先祖の霊に守られた京町家の五感によって、これまで人の「いのち」は癒されてきた。町でも村でもそれぞれの五感は直接会話によって交信され、文字と絵画の芸術文化として次世代に伝えられ、世代を超えて幸福感を共有してきた。 本書の著者は「新人類」に享受されている「新五感」に対して終始否定的な立場に立ち、「いのち」の癒しとしての「旧五感」の再生を目指している。しかし評論子としては、2つの五感を対立的に捉えるのでなく、むしろ21世紀に開花し、その進行の止めようの無いバーチャル文化によって創生された「新五感」を再評価した上で、先人の哲学や生活の受け渡しとしての「旧五感」を新旧両世代で感覚的に共感することこそが求められているように思う。明治維新の古都に全国に先駆けて敷かれた市電軌道のように、今こそ新しい若い力に支えられた「京の五感」軌道が模索される時期にきたのではないかと思う。バーチャル文化は知の切り開いた「五感」軌道であり、インターネットで世界の全ての人に同時に接続する、誰にも占有されない知識の共有軌道である。そこに新しいイマジネーション(心)で連なった「いきる」連帯感の芽生えを期待している。 山岸秀夫(編集委員)
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