2002.9.1

 

藤竹 信英

 

7. 大峰殿

 


 西洞院一条といえば京都市上京区にあり、戻り橋より東へ二百メートルばかりのところである。一条通りは平安京一条大路の道筋にあたる東西の道路で、東は京都御所の築地につき当りとなり、御所の森をへだてて東には如意ヶ嶽の優姿が望まれる。一条通りから西洞院通りへ曲がると、ここは大峰の図子(ずし)と呼ばれ、道の両側には表にべんがら塗りの格子戸を嵌め、屋根は中二階の虫籠窓(むしこまど)とし、内部は入口より奥まで筒抜けになった京都特有の旧い構えの家ばかりが建ち並んでいて、この頃はやりの新住宅と違ってやはりどことなく落着いたところがあり、明治・大正生まれのものにとっては妙に郷愁をそそられる。

 大峰殿はこういった京都の旧い民家の建て込んだ一角にひっそりと残っている。道路に面してかなり立派な門があり、中へ入ると二十メートルばかり奥まったところに屋根を設けた小堂があって、その中に高さ二メートルの巨大な石造宝塔が安置されている。石は赤味を帯びて仏像を刻んだ跡が見られるが、火災にあったとみえその表面は焼けただれ、いまは判別することも出来なくなっている。東山即成院の那須与市宗高の塔と同じ形式のものとみられ、京都に残る鎌倉時代の石造宝塔中、有数のものであろう。それがこのような処にどうして在るのだろう。

 この大峰殿についてはその由緒沿革が明かでないのは残念であるが、江戸時代に刊行された名所地誌本を一応の手がかりとして検討すると、およそ次ぎのようになる。

 それは、昔この地を大峰野と称し,平安時代の頃に大峰寺という寺院があって、修験者の坊舎だったという。また石塔は役小角(えんのおづぬ) (役行者)の塚、また僧日円の塚とも、あるいは役小角が大和国焼山から移したものともいう。あまり要領を得ない。それにも拘わらず大峰寺の名が特に知られているのは『今昔物語』に次ぎのような奇怪極まる話が記されているからであろう。それは、


 今は昔、京に幻術を巧みに行なう法師がいた。例えば下駄や草履を犬の子などに変えて見せたり懐中から狐を鳴かせたり、あるいは牛や馬の尻より入って口から出るということなどをやって見せて人々を驚かせた。この法師の隣家に住む若い男がこれを見て羨ましく、自分も幻術をやってみようと思って法師にその伝習を懇願した。しかし法師は容易に教えてくれなかったが,更に熱心に頼み込むと、「それではこのことを絶対他人に口外しないこと。七日間精進潔斎をすること。御飯を炊いて浄(きよ)い桶に入れておくことを約束し実行すれば、ある高貴な人のところへ案内し、お前の望みを適えてやろう」という。喜んだ男はそれから早速法師の言葉に従い、約束を守って待っていると、法師が来て言うには「お前が真にこのことを習いたいという一念であれば、決して刀を持ってくるな」と懇ろに言われたのである。男は「承知しました」と言ったものの、内心、「これはおかしい」と不審に思い、念のために密かに小刀を研ぎすましておいた。

 やがて七日に満ちようとする日の夕べ、再び法師がやって来て、ゆめゆめ人には言うな。御飯を入れた桶は自身が持て。刀を持って来てはならんぞ。と、三つのことを重ねて言って去った。翌早暁二人は家を出で立ったが、男は懐中に刀を隠し持ち法師を先に立てて何処とも知れぬ山中を歩いて、巳の刻(午前十時頃)に深山の僧房に辿り着いた。

 法師は男を門の前に待たせて、内に入ると一人の怪しげな老僧があらわれ、「久しく見えなかったではないか」という。法師は「つい忙しくして、失礼を致しておりました。本日参上いたしましたのは他でもありません。拙僧の知人ですがここで修業をしたいというので連れて参りました。何分よろしくお願い致します」と言うと、老僧は不機嫌な顔をして「お前が詰らぬことを言うからそのような志望者が出てくるのだ。ここは普通の人間の来るところではないということを知っているではないか。それにしてもその男はどこにいるのだ。ここへ呼べ」という。法師は男を呼び入れ、桶を受け取って縁の上に置くと、老僧はじろりと若い男を一瞥し「刀を持っていないだろうな」と尋ねる。「はい、持っておりません」と答えたが、老僧は容易に信じようとはせず、若い僧を呼び寄せ「念のためにその男の懐中を調べるがよい」と命じた。男は「南無三、懐中を調べられたら忽ちことは露見する。そうなればどのような目に遭うか分からない。おなじ死ぬなら老僧と差し違えよう」と、とっさに決心し、懐中より刀を抜き放ち、老僧目がけて縁の上に飛び上がって斬りつけた。途端に老僧も房舎も忽然と消え失せてしまった。

 ややしばらく男は呆然となっていたが、やがて気をとり直してあたりを見渡すと、大きな堂内にいることが分かった。しかもその堂というのは一条西洞院の大峰寺であった。早朝に家を出て随分遠い山の中へ行ったつもりが、実は上京辺の寺であったとは、全く天狗に摘ままれたような話であり、このような業をして人を誑かすとは、まことに罪深い奴だと人々は語り伝えたという。


 大峰とは奈良県吉野郡十津川の東に聳える大峰山脈の主峰山上ヶ嶽のことで、山上には蔵王権現を祀った蔵王堂がある。また山中には笙窟(しょうのいわや)、鷲窟、朝日窟と呼ばれる岩室があって、古来山伏修験者の根本霊場とされている。修験道は役小角(えんのおづぬ)によって開かれたといわれ、日本古来の山岳信仰に仏教の密教的要素が習合して成立した宗教で、山岳に上って修行することにより呪力を得るものとされた。

 大峰寺とは吉野の大峰山の名を採った山伏修験者の道場だったろうことはこれで明らかである。従って石塔を役小角の塔という伝承も一概に否定することはできない。黒川道祐はその著、『近畿歴覧記』に、この塔は役行者十代の法孫日円の塔とし、はじめ西ノ京にあったのをこの地に移した旨を記している。日円とはあまりわれわれには馴染みのない人物であるが、山伏修験者にとっては役小角についで渇仰された人物という。