2002.8.1

 

藤竹 信英

 

6. 班女(はんにょ)塚伝説

 


 高辻通りの室町といえば室町繊維問屋街の真中であり、ふだんは車の出入りの多い京都商業地区の中心地である。だから人は行き来の車に気をとられ、こんな街中に古ぼけた伝え話の遺跡が遺されていることなど思いもしないだろう。しかし、稀には高辻通りに面する成徳中学校の向い側に赤い鳥居の小さな神社があって、「高辻弁財天、繁昌の宮」と記した標札に目を止める物好きもいるかもしれない。正しくは「繁昌神社」というのだそうである。まことに結構な社名で、思わず立ちよって参拝をしてみょうという気にもなる。しかも入口から本殿までの間が僅か一間あまりという短い距離とあればお参りをするのも手っ取り早く、ご利益も案外早いのではなかろうか。

 繁昌神社はもと班女神社とも半女社とも称した。今は田心(たぎり)姫命・瑞津(たきつ)姫命・市杵(いちき)島姫命の三女神を祭神としているが、むかしは弁財天を本地とし、功徳院と号し、真言僧が管理していたのを明治の神仏分離によって神社だけが残ったと伝える。旧鎮座地は現在のところより西北、仏光寺通りに抜ける路次の中程で、現在も二間四方ぐらいの空地の中央には大きな赤味をおびた一個の巌石が安置され、その上に小さな祠が祀られている。これを班女塚といい、一見してなにかいわくがありそうだが、それについて『宇治拾遺物語』に次ぎのような奇怪な物語がみえる。それは、


 今は昔、前長門国守だったある人に二人の娘があった。姉の方はすでに縁付いていたが、妹の方はたいそう若く、はじめは宮仕えをしていたが、辞めてからのちは家に居たが、定まった夫もなく、ただときどき通うてくる男などがいた。高辻室町のあたりに家があって、父母もなくなり、姉と同居していた。奥の方に姉が住み、妹は寝殿の南面の西にあたる妻戸の口の処を男と語らいをする場所にしていた。

 ところが、この妹が二十七、八歳程になった頃、ひどく患った末とうとう亡くなってしまった。遺体は奥が狭苦しいからというので、例の妻戸口にそのまま寝かせていたが、何時までもそうはできないので、車に積んで鳥辺野(とべの)の墓地へ運んだのである。さて車から取り降ろしたところ、棺が軽く、蓋が少し開いている。不審に思ってあけてみると、何としたことか、棺の中には何も入っていないではないか。「途中で落ちるはずがないのに、どうしたことだろう」と人々はあきれるばかりである。なすすべもなく、さりとてそのままに打ち捨ててもおけず、人々はもと来た道を探しながらむなしく家へ帰りついた。帰ってみて驚いたことには、遺体はかの妻戸口に、もとのような格好でうち臥しているではないか。まったく意外でもあり恐ろしくもあって、「どうしたらよいか」と家人が騒ぐうちに夜も更けたので、その場を過ごし、翌日また棺に納めて、今度はよくよくしっかりと始末をして送り出そうとした。しかるに夕方になってみると、また棺の蓋が細めに空いていて、遺体はもとの妻戸口に臥していたではないか ! いよいよ「あきれたことだ」と驚きつつ、もう一度棺の中へ入れようとすると、今度は土から生えた大木のようにまるっきり動かない。これは死んでもここに居たいからであろうと思って、主立った人が近かより「それではこのまま、ここにお置きも致しましょう。しかし、こんなざまでは見苦しいことでしょう」といって、妻戸口の板敷を壊して、そこに降ろそうとしたところ、案外かるがると降ろすことが出来た。そこでやむを得ず、妻戸口一間の板敷など取り壊し、そこに遺体を埋めて高々と塚を築いた。家の人々も遺体を埋めたところと向い合って住むのは気味が悪いといって、よそへ引っ越してしまった。その後、月日が経つに連れて寝殿も壊れてなくなり、気味の悪いことがあるという言伝えのために、人々は塚のそばには寄り付かなくなった。そこは高辻より北、室町よりは西、高辻表のうちで、六、七間のところには小家もなく、その塚ひとつだけが高々と残っていた。そして、この塚の上には、どうしたわけか、神の社一座が祀られるようになった。今も在るそうである。



 この話は『宇治拾遺物語』に「長門前司の娘、葬送のとき本(もと)の処に帰る事」と題した説話の要約である。この妹娘を葬った処が現在の班女塚で、同書に記すところとほぼ一致する。この塚を神社化し、物語のヒロインにちなんで弁財天を祭神としたものであろう。弁財天は一に針才女(はりさいじょ)ともいい、これが訛って班女神社と称したとみられる。しかしこれではお賽銭の上がりが悪いので、語呂が似ているところから繁菖神社とあらためた。豊臣秀吉がある時、当社を東山五条の佐女牛(さめうし)八幡宮社の近く移したことがあったが、祟りがあるといってまたもとの場所へ返したと言われる。また昔は当社の前を縁談事で通ると必ず破談になると言われ、嫁入り婿入りの行列もこの前を避けて通ったという。しかし今日ではこれを逆にとり、商売繁昌・縁結びの神とされている。

 当社の例祭は毎年五月二十日に行なわれるが、宵宮祭の夜十時頃には神輿の渡御があって、この夜、神輿を担ぐと良縁を得るといい、また下(しも)の病気を患わぬとも言われる。また戦前のこの神輿担ぎは、素裸の男達によって行われたが、これは未婚のままで死んだ班女の霊を慰めるためだと言われる。但し今はこのようなことは行われていないそうである。念のため。