2006.10.1
藤竹 信英 (編集:菅原 努)
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54. 東山三十六峰漫歩 第三十五峰 光明峰(こうみょうほう) |
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伏見稲荷の還坂(かえりざか)、恵日山の東、泉山の南に人目につかぬようにつつましい姿をみせているのが光明峰である。恵日山東福寺が九条家の菩提寺としてひらかれたことは先に述べたのであるが、この光明峰という山も、東福寺を建てた九条道家が別に此処に光明峰寺を建立したことから山の名となったのである。孟宗竹のやぶにつつまれた小さな丘に九条家累代の霊が合祀されている。まさに九条家の山といえよう。山へは東福寺三門と本堂の間の道を東へ進む。突きあたりが九条家の始祖九条兼実の内山本廟で、奈良興福寺の南円堂を模した八角の法華堂である。兼実は藤原鎌足二十一世の孫、忠通の第三子で、平安末期から鎌倉初期の激動の時に生まれ合わせ、摂政、関白、太政大臣を歴任した。はじめは後白河法皇と同じく平家追討の立場をとったが、後に法皇が源頼朝追討を企てるに及び、兼実はこれに反対し、建久三年(1192)、法皇の崩御、頼朝の鎌倉幕府成立に伴い、兼実は朝廷の実権を手中にして関白に登り詰めた。九条家を創設したのはこの頃である。しかし好事魔多く建久七年には土御門通親らの謀略で失墜し、正治元年(1199)頼朝の死により政治生命を失って出家、法性寺内の報恩院をその終焉の地と定めた。正元元年(1207)没。59歳。 九条家はその後、良経、道家、教実と継がれるが、道家の三子、教実、良実、実経はそれぞれ九条、二条、一条の三家に分れる。五摂家とは、この三家と近衛、鷹司を合わせて呼ぶ。兼実の内山本廟のそばに九条家累代の墓がならび、代々関白や摂政を務めた一族十二名の名が刻まれた石碑が建つ。この中に「光明峰寺摂政准三宮道家」の文字がみえる。道家が政界を退いたのは嘉禎三年(1237)。法性寺内のこの地に光明峰寺を建て、出家し法名を行慧と称した。三子を摂政・関白とし、四男の頼経を鎌倉四代将軍とした実力者道家を、世人は「光明峰寺殿」とも「峰殿」とも呼んだ。その光明峰寺で、建長四年(1252)道家は没した。59歳。他に光明峰寺についての資料はない。 哀れなり草のかげにもしら露の この一首を残すのみである。 光明峰の南に第八十五代仲恭天皇九条陵がある。帝は順徳天皇の第四子で、承久三年(1221)四月、四歳で皇位につき、四ヶ月で退位している。承久の変によるものである。この年、後鳥羽上皇は王政復古の討幕計画をたてた。順徳天皇もこれに同意し、皇位を仲恭天皇に譲って上皇となり挙兵する。しかし六月にあっけなく敗れ、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳天皇は佐渡へ流された。幕府は仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を即位させ、六波羅探題を作る。仲恭天皇は天福二年(1234)没。十七歳。陵の左手にならぶ長州藩士の墓は四十八名。鳥羽伏見の戦死者である。時代と身分を異にするが、共に数奇な運命を歩んだといえよう。このあたりから眺めると京都の東部は東福寺の樹林に遮ぎられているが、北は鷹ヶ峰から市中、そして南は鳥羽、伏見がひろがり、天王山あたりまで見渡せる。
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