2006.7.1
藤竹 信英 (編集:菅原 努) |
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51. 東山三十六峰漫歩 第二五峰 |
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東大谷山という山はない。東本願寺の″本廟″のことだといえば納得してもらえるだろう。つまり長楽寺山、円山、高台寺山、霊山、双林寺山に囲まれた墓地の山、これが東大谷山なのである。歴史もそんなに古くはない。この地にはかって法華宗の東漸寺があり、東漸寺山とよばれていた。山の名をぬりかえたのは東大谷の進出によるもので、その背後には徳川幕府の強大な権力が控えていたのである。戦国時代、真宗の一向一揆対策に腐心する家康は遂に慶長七年(1602)本願寺勢力の分割に着手する。十一世顕如の没後、長子教如に代わって弟の光昭が十二世を継いだが、家康は一旦隠居した教如に烏丸六条の土地を与え、おなじく十二世を名乗らせたのである。本願寺が東西に分裂したのはこの時からである。翌年家康は知恩院を徳川家の寺と定めた。小さな山寺であった知恩院に諸堂の建立と寺領七百石を寄せ、装いを一新する大工事に取り掛かった。付近の社寺は土地を狭められ、又は強制立ち退きを命ぜられている。そこでこの地の東漸寺もやむなく本能寺に吸収され廃寺になってしまった。嘗てこの寺の庭には「泰山府君」という名桜があった。『古木大樹の桜は満開の頃は洛中仏光寺通より真東に当たり山上白雲の如くしてよき眺望なり。伝えて云く往昔此地桜町中納言成範郷の山荘の地なり。この一株の桜樹その庭中にあり。成範郷甚だこれを愛玩し給えるあまりに桜花の春日を過ゆくままにうつろうことをいとおしみて験者に命じて泰山府君の法を修せしめ花の盛りの久しからんことを祈りたまいしより則世に称してこの花を泰山府君の桜というとぞ』(花洛名勝図会) 廃寺の運命を辿った悲劇の跡地に親鸞上人の廟所が移されのは慶長九年(1604)のことである。今の東大谷山は二万柱をこえる墓地群となっている。ほほえましい話もある。この広大な墓地の片隅に「秋山自雲霊神祠」といって痔疾に悩むものにすこぶる霊験ありといわれ、祈願するものは報賽に幟を奉納することを誓わなければならぬ。江戸時代からの信仰であるが今もなお、姓名、年令、性別を墨書した真新しい幟が林立している。
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