2006.1.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

45.東山三十六峰漫歩 第十七峰 南禅寺山

 


 【第十七峰 南禅寺山】

 まず南禅寺に向う。この南禅寺の気分を味わうのには、動物園の前を、疎水から一町ばかり南に入って、左手に見える小さな黒門からはじめるのがよい。名高い瓢亭の表構への田舎めくのも趣きである。インクラインの上に架かる南禅寺橋を渡ってなお並木路を東に進むと、さすがに大刹らしい樹林が見える。

 惣門を入ると眼前に三門の大建築が見える。寛永5年(1628)、藤堂高虎が大阪陣に没した将士の菩提を弔うために建造したものである。歌舞伎の「山門五三桐」に石川五右衛門がこの門に住んだというので有名である。それは史実でないにしても、ここを舞台にしたことは似つかわしい、

 南禅寺の起源は亀山上皇が離宮を営んだ処であるが、のち東福寺の無関普門(大明国師)に帰依し、離宮を寺にしたのが始まりである。建武元年(1334)には、後醍醐天皇により京都五山の第一位に列せられ、さらに至徳三年(1386)には足利義満により京鎌倉五山の上に位する“五山の上”の寺格を与えられた。別格を誇った禅寺だけに戒律も特に厳しく、女性は尼僧とて入山を禁じ、「芝刈り人といえども女性(にょしょう)は許さず」の禁令がでたのである。
 本坊にある方丈は大方丈と小方丈に分かれ、寺伝では大方丈は天正年間の清涼殿を下賜されたものと伝える。奥の小方丈は伏見城の殿舎を移したものと伝えられ、狩野探幽筆の群虎図の襖絵がある。

 本坊を出て、西南の樹林の中に南禅院を訪ねる。古都の禅寺の中でも南禅寺ほどに清楚の中にみやびた趣を感じるところはない。この雰囲気は離宮のいにしえの香りが今もただよっているからであろう。今は塔頭となっている南禅院こそ亀山上皇の離宮、禅林寺殿の故地である。増鏡に「禅林寺殿をば、おはしましし時より禅院になされき。南禅院というはこれなめり」とある。この南禅院の方丈に坐っていると、昔の匂いがどこからともなく身に迫る思いがする。

 南禅院から西へ向うと、三門の南が天授庵である。方丈の水墨の商山四皓図、淡彩の禅宗祖師及び松鶴図の襖絵は長谷川等伯の晩年の傑作で、気魄の満ちた作品である。

 此処から西南に少し離れて大きな屋根が見える金地院は塔頭の随一で、江戸初期の崇伝(本光国師)が経営して今の寺観となったのである。

 南禅寺といえば、“湯どうふ”ということになる。境内には江戸時代から、口丹、中丹、奥丹、とトリオをなして湯どうふ屋があったというが、いまでは、奥丹だけが“しにせ”として残っている。土鍋の中に、コトコトとささやくように煮える音をたてる“湯どうふ”の風味は京ならではの趣である。新しい三高の帽子を被って友人と連れ立ち、この奥丹の庭さきで“湯どうふ”を味わった時、生まれてはじめて風流といったものの片鱗に触れて、急に“一人前”になったような錯覚に陥った思い出もある。

 

 次に六勝寺(りくしょうじ)跡と呼ばれる地域は、鴨川の東に広がる白川扇状地にある。付近に白川が流れ、九条山を越えて、東海道の終点である三條大橋に至るあたりに位置している。この左京区岡崎一帯には、京都会館や美術館などがあり、京都の文化施設が集中した緑の多い一画となっている。このあたりは江戸時代以来、瓦や土塔(どとう)が収集され、地名に法勝寺(ほっしょうじ)町・円勝寺(えんしょうじ)町・成勝寺(じょうしょうじ)町・最勝寺町があることから、付近に六勝寺があったのではと考えられていた。

 六勝寺が建てられたのは平安時代後期で、いわゆる院政期である。天皇の願いによって建立されたので御願寺(ぎょがんじ)と言われる。これらは、寺号にいずれも「勝」の字を持つため、総稱して六勝寺と呼ばれている。各寺を建立順に並べてみると、法勝寺、尊勝寺(そんしょうじ)、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺(えんしょうじ)となる。六勝寺は、鎌倉時代までは再建や修理が繰り返されたが、天皇の力が衰退するとそれも不可能となり、最終的には応仁の乱(1467-1477)によって焼亡した。

 法勝寺は白河天皇の御願で承暦元年(1077)の供養である。鬼界ヶ島に流された俊寛僧都がこの寺の執行であったことで世に知られている。二町四方に地を定め、南面して中央に金堂が建ち、その前に塔、境内西南隅には阿弥陀堂、その他講堂、五大堂、薬師堂、八角円堂、常行堂、曼茶羅堂、小堂院、不動堂などが次々に建てられた。

 法勝寺の八角九重塔はとりわけ天下の美観として知られ、これより南に通ずる東海道を上り下りする人たちはこの塔影を望んで心を慰めた。この塔にはしばしば落雷があったが、なお、鎌倉時代までは保たれてきた。しかし承元二年(1208)5月15日遂に雷火のため焼亡してしまった。藤原定家の日記「明月記」にはこの日の有様が載せられている。大雨雷鳴して天地暗黒の中に白河に火炎が立昇った。九重塔だというので群衆がおしよせたが、炎々と燃え上る火勢は塔を包み、火焔はあたりの樹木に移り、やがて塔の心柱はどうと南に倒れた。この時、法勝寺の執行の老僧章玄は物狂わしく駆けめぐったのち、金堂の壇上に昇って、「命長くして不思議の事に遇いぬ」というよりも気を失い、その夜遂に死に絶えたことは殊に哀れをとどめるものであった。

 現在の岡崎動物園はおよそ法勝寺の故地の西南の大部を占めるもので、園の中央の池の南岸に近年まで土壇が残り、これを「塔の壇」といった。八角九重塔の跡である。

 尊勝寺は堀河天皇の御願で、康和4年(1102)供養が行われた。現在の平安神宮境域南半から二條までの場所に当たる。南北線上に金堂・講堂、それに東南と西南の隅にそれぞれ五重塔を具えていた。

 最勝寺は鳥羽天皇の御願で元永元年(1118)供養が行われた。法勝寺と尊勝寺との間に挟まれ、今の岡崎運動場の辺りである。金堂・薬師堂・五大堂・塔があった。

 円勝寺は鳥羽天皇の中宮で崇徳天皇の母后の当る待賢門院の発願、大治3年(1128)に堂供養が行われた。法勝寺の西、最勝寺の南で、今の美術館の辺りである。三重塔二基と五重塔一基、金堂、五大堂が建てられた。

 成勝寺は崇徳天皇御願にかかり、保延5年(1139)に供養された。寺地は尊勝寺の南、円勝寺の西で、府立図書館の辺りである。金堂、観音堂などがあった。

 延勝寺は近衛天皇の御願で、久安5年(1149)に供養があった。今の東大路を中心に東西へ各一町を限った辺りの東西に長い二町を占めた。妙伝寺から西方寺附近を旧址とする。金堂、塔、一字金輪堂の他、九体阿弥陀堂が建てられた。