2005.12.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

44.東山三十六峰漫歩 第十五峰 椿ヶ峰、第十六峰 若王子(にゃくおうじ)山

 


 【第十五峰 椿ヶ峰】

 霊鑑寺は法然院の南、鹿ヶ谷御所ノ段町に位置する臨済宗南禅寺派の門跡尼寺で、谷の御所、鹿ヶ谷比丘尼御所とも呼ばれている。庭園は回遊式で、客殿南の庭は、白砂を敷き、その南には、池(現在は枯渇しているが、戦前は谷川から流れこんでいた)を配し、東南角には、生得(実際に水を流すことのできる)の山水の瀧石組がある。池泉には二橋式の板石橋があり、橋を渡ると蓬莱の石組を背にして大振りの般若寺型石燈籠がどっしりと構えている。境内(居間の前)には後水尾天皇遺愛の「散椿」、えもいわれぬ風情を保つ。池の右手の「日光」のほか「月光」「八重佗介」など三十数種の名椿木がその妍を競う。

 談合谷とはこの寺の東方山中の峡谷である。「平家物語」によれば、治承年間 、法勝寺の執行(しぎよ)俊寛僧都の山荘があって、新大納言藤原成親をはじめ丹波少将成経、平判官康頼、藤原師光等、ときには後白川法王も御幸され、遊園にことよせて、平家討伐の密議が行われたところから、のちに談合谷とよばれるに至った。この密謀は多田蔵人行綱の裏切りにより瓦解し、清盛は法皇を鳥羽殿に押し込め、藤原師光は斬罪、俊寛僧都は、康頼とともに鬼界ヶ島へ流された。

 この鹿ヶ谷の地は、ひょうたんの形をした大型の鹿ヶ谷かぼちゃ(ひょうたん南瓜)の産地である。文化年間、津軽の国より持ち帰ったかぼちゃの種子を鹿ヶ谷の住人、庄兵衛と又兵衛が連作するうちにひょうたん形なったといわれている。味が淡泊で、甘味・香りが、新しい品種に比べて劣るため、最近では食用よりも、むしろ珍しい旬の飾りものとして評価されている。

 哲学の道は銀閣寺から辿って大豊神社の石灯籠が見えてくるともう終点の若王子に近い。大豊神社のご神体は本殿背後の椿ヶ峰である。山はツバキ、シイなどが密生して光を通さない。あちこちに空き缶をぶら下げた灯油缶を見かける。イノシシよけである。鹿ヶ谷の地名の起こりは比叡山の智証大師円珍がこの地を訪れた時、シカが道案内したことによるといわれるが、鹿ヶ谷のシシはイノシシにも通じるとの説もある。

 末社の大国社には、大国主命が野火に遇い、それをねずみが洞穴に導いて、命を助けた伝説に因む狛犬ならぬ高麗鼠の一対が鎮まっている。

 随分昔になるが法然院あたりから霊鑑寺かけて、まだ人家は疎らで草原が多くあった。昭和14年頃の夏休みの一日、私は三高馬術部で飼っている馬の中で痩せた方の宮梅号を連れて、この草原で栄養を付けようと試みたことがある。広い草原を独占できるので宮梅号は御満悦である。「ヒン」とも言わず、草をむさぼり始めた。私は上衣のポケットから、おもむろに岩波文庫の一冊をとり出し、草原に足を投げ出して読み始めた。漱石の「草枕」である。視線をときに宮梅号に移して注意を怠らなかったが、それ以外は頁を繰る微かな響きだけの時が過ぎた。「草枕」は佳境に入っていた。『やがて階段の上に何者かあらはれた。廣い風呂場を照らすものは、只一つの小さき釣り洋燈のみであるから、この隔たりでは澄み切った空気を控えてさえ、確と物色はむずかしい。… … 黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞毬のごとく柔らかと見えて、足音を証に之を律すれば、動かぬと評しても差支ない。が輪郭は少し浮き上がる。余は畫工だけあって人体の骨格に就ては、存外視覚が鋭敏である。何とも知れぬものゝ一段動いた時、余は女と二人、此風呂場の中に在る事を覚った』

 ここまで読んで、私は、もう時間も時間だし、惜しいけれど引き上げようと決心した。ゆったりと宮梅号に近付いた。しかし馬は私を一瞥するなり、一寸首を振る仕草をすると、その尻を私の方に向け変えて、そ知らぬ顔で草を食み続けた。

 かくして私は「草枕」を読了することを余儀なくされる運命に立ち至った。疎水道を宮梅号にゆられて百万遍の三高厩舎に辿り着いた時、あたりはすっかり暗くなっていた。その夜の宮梅号の満腹の夢はいかばかりであっただろうか。

 

 【第十六峰 若王子(にゃくおうじ)山】

 西田幾多郎博士の散策で名を得た“哲学の道”の終点が熊野若王子神社で、熊野神社、新熊野神社の二社とともに「京都三熊野」の一つであり、天照大神の異称「若一王子」からとった社名である。

 神社の前を東南へ山道を登り、若王子橋から約10分で、山頂の若王子墓地に到達する。同志社の創立者 新島襄・八重子夫妻、協力者 山本覚馬、門人 徳富蘇峰などの墓がある。 新島襄は天保14年(1843)、東京神田一橋に生れた。幼名は七五三太(しめた)という。祖父の弁治が男児の出生に大喜びで「しめた!」と叫んだので、これが名前になった。

 襄は元治元年(1864)密航してアメリカに渡り、アーモスト大学を卒業し、キリスト教精神を主義とする学校を日本に設立する志をいだいて帰国した。明治8年(1875)11月29日、生徒数8名で「同志社英学校」が開かれた。しかし過労のため仆れ、明治23年1月23日死去した。27日同志社チャペルで告別式が行われ、参列者は4,000名を数えた。生徒達は交代で棺をかついで若王子山の墓所に運び、埋葬が行われた。享年48才であった。墓碑は勝海舟の書を陰刻したものである。

 若王子山の真下にみえる永観堂は、正しくは禅林寺といい、創建は平安初期という。永観堂と呼ぶのは七世永観律師の名に由来するもので、本尊阿弥陀如来像は世に“見返り阿弥陀”と呼ばれている。

 この阿弥陀仏には伝説がある。平安の中ごろ、永観律師が本堂で行道念仏の行をしているとき、阿弥陀如来(実は室町時代作)が壇からおりて永観と行動を共にした。永観は驚いて歩みを止めた。先行した阿弥陀如来はふりむいて「永観遅いぞ」と促された。またまた驚いた永観は畏れ従った。それ以来、阿弥陀如来は見返りの姿のまま安置されることになった。いわゆる“見返り阿弥陀”の由来である。永観の時代と本尊の作られた時とには大きなズレがある。信仰物語の面白い所以である。