2005.11.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

43.東山三十六峰漫歩 第十三峰 紫雲山、第十四峰 善気山(ぜんきざん)

 


 【第十三峰 紫雲山】

 吉田山のいただきあたりは古くから神楽岡と呼ばれた。平安時代には、その東麓に後一條天皇の御墓所として菩提樹院が建てられたが、今は堂塔とて失われ、御陵のみを拝する。榮華物語には「二條院、故院の御墓所に御堂建てさせ給ひて、菩提院とて東山なる野に三昧堂建てられたる傍らに御堂建てさせ給ひて」と見える。その南東に三重塔の相輪を森の中に浮かべて美しい真正極楽寺は、真如堂の名で知られている。境内楓樹多く紅葉に名を得ているが、初秋の萩の乱れる頃の清雅な趣きも捨て難い。

 この真如堂で毎年11月5日より15日まで行われる法事、「お十夜(じゅうや)」は、浄土宗寺院中、もっとも盛大におこなわれ、15日の結願(けちがん)大法要には稚児およそ60人と北白川女の稚児20人が参加し、山伏を先頭に貫主(かんす)大導師のもとにおねりが本堂に参進する。折柄らうちならす大念仏の鉦の音と念仏誦称の声、もみじ映える境内にこだまし、さながら真正極楽の霊土を再現する。

 真如堂から黒谷への近道は境内奥にある墓地を抜けて、黒谷の墓地へ出るのがよい。このあたりは倉田百三の「愛と認識との出発」や「出家とその弟子」にかぶれていた時代にはよくうろうろしたなつかしい場所である。

 黒谷の本堂の辺りは高台になっており、本堂よりも一段低い所に三門の屋根が見える。旧本堂は江戸末期の寛政年間の建築であったが、昭和9年失火により失われ、後年再建された。此の寺は承安5年(1175)法然上人が比叡山の黒谷を出て始めて草庵を結んだ地で、金戒光明寺とよび、浄土宗最初の霊域として重んじられ、寺域なかなか広壮である。かくして黒谷の名は此の地に移り、比叡山の方は元黒谷と呼ばれているのである。

 伽藍から東へ、墓地の入口にある石橋を渡ると、右手に見える小堂が勢至堂である。その前方左右に立つ二基の石造五輪塔はそれぞれ、熊谷塔及び敦盛塔と呼ばれている。平家物語に見える哀話に名高い須磨浦で、平家の公達敦盛を討った熊谷次郎直実が世の無常を感じて當寺に入り、法然上人に付いて出家し、蓮生と稱したという因縁による。

 

 【第十四峰 善気山(ぜんきざん)】

 銀閣寺の少し南にある法然院は善氣山獅子谷法然院と稱し、別名善氣山萬無寺ともいい浄土宗知恩院捨世派の本山である。鎌倉時代のはじめ、法然上人がこの地に弟子の安楽や住蓮と共に草庵をもうけ、六時礼讃(一日を晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜・の六つに分け、念仏読経を行うこと)を唱え、専修読経の行を修された旧跡である。建永の法難(1206)によって香煙が絶えていた地に、延宝8年(1680)、知恩院の心阿上人によって再興された。
 この寺は風光よく、閑寂な風情に恵まれているので多くの学者、文人墨客が墓所を定めている。参道に雅趣にとんだ句碑を見た。

   椿落ちて 林泉の春動きけり  いはほ

 内科第二講座の松尾巌元教授の句である。俳人としても名を成した。
 経済学の河上肇博士の墓には自筆の万葉仮名の碑が立つ。

   多度利津伎布理加幣里美禮者山川遠古依手波越叮来都流毛野哉
                 壬申夏余作此歌 河上肇

 哲学者九鬼周造はベルグソン、ハイデッカー等に学び、天野貞裕の招きで京大に来たが、学問追求に並行して、祇園追求も華々しかった。昭和12年には山科に広大な土地を求め、好きな植物をたんねんに集め、風変わりな屋敷を営んだが、まもなく病を得て没した次第である。法然院に眠る九鬼博士の墓の側面には西田幾多郎博士の訳によるゲーテの「旅人の夜の歌」が刻まれている。それは西田博士が病を押して書いたもので、まもなく後を追われたのである。
   
   ゲーテの歌    寸心
  見はるかす 山の頂 
   梢には風も動かず鳥も鳴かず 
    まてしばし やがて汝(なれ)も休(いこ)はん

 九鬼周造は「“いき”の構造」を解きあかすことを通じて、日本民族の独特な美的趣味の様式を探ろうと試みた。彼は日本人の美的精神としての“いき”を、媚び(色情)+意気(武士道精神)+諦め(仏教思想)でとらえている。彼は“いき”の芸術的表現を究明する場合、主として模様、色、建築、音楽、などを通じて考察する。彼は“いき”な模様を縦縞にみる。なぜなら、両眼の位置は水平に並んでいるから、垂直に走る縦縞のほうが横縞よりも容易に平行線として知覚されるからである。こうして縦縞と横縞の比較から基盤縞、格子縞、絣、籠目、亀甲模様などの微妙な美的効果を丹念に分析する。色についても、“いき”な色として、ねずみ、茶、青、をあげる。

 九鬼は日本の哲学者には珍しい明晰にものを見る心をもっていたが、西田幾多郎、田辺元を哲学の模範とする大正、昭和の日本の哲学界の状況では、明晰さはかえって底が浅いもののようにみられ、九鬼の仕事は殿様芸のように思われた。これは九鬼のみならず日本の哲学界にとっても不幸な運命であった。

 話は変るが、江戸初期の筑紫琴、八橋流の創始者、八橋検校は貞享2年(1685)に没し、その御忌法要が毎年6月12日に、この法然院で営まれる。彼は筑紫琴を改良して、しなやかな音色を出すことに成功し、箏曲を大衆にも親しみのもてるように工夫した。そして、その墓は、黒谷の金戒光明寺にある。

 京銘菓八ッ橋は、俗伝によれば、黒谷にある八橋検校の墓に詣る門弟たちが絶えることがないので、1689年頃から参道の茶店が琴に似せた煎餅を売り出したのが始まりという。異説には、八橋検校が米をといでいる時、もれた米つぶを拾い集めて焼いたのが始まりで、のち琴の形になったともいわれている。

 

 付記:河上肇博士の万葉仮名短歌の読み
   たどりつきふりかえりみれば やまかわをこえてはこえてきつるものかな