2005.10.1
藤竹 信英 (編集:菅原 努) |
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42.東山三十六峰漫歩 第十一峰 如意ヶ岳、第十二峰 吉田山 |
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大文字寺(浄土院)は慈照寺(銀閣寺)の北隣りにあって大文字の送り火を管理する寺である。その昔、如意ヶ嶽山麓にあった浄土寺が炎上した。その時本尊阿弥陀如来がこの山の頂上に飛び上がって、光明を放ったので、それより盂蘭盆会の精霊送り火を山上に点ずるに至った。「大」の字を選んだのは、仏教では「大」は人体を表現し、人体の心に潜む七十五法の煩悩性を焼き尽くすためだといわれている。点火場所としてこの山上が選ばれたのは、洛中のどこからでも眺められることと、それに加えてこの山麓一帯が所謂葬送地の一つであったからであろう。 現存の大文字送り火は、足利義政が相国寺の僧横川景三(おうせんけいさん)に託して復旧せしめたものといわれ、年中行事になったのは、江戸初期と思われる。その規模は、山頂西北部に各3.6米隔てて孔を穿った75の火床よりなり、第一画の長さ81米(19床)、第二画、160米(29床)、第三画、138米(27床)という大きなものである。点火に当っては浄土寺町の有志の人々の奉仕により、十六日午後から一束三貫目の松割木五百束を、山上に持ち運び、火床の上に井桁を組んで点火するという。この大きな火焔の文字が、夏の夜空に燃え上がる。譬えようがなく壮観の極みである。
【第十二峰 吉田山】 吉田山は南北400mばかりの一丘陵に過ぎないが、「諸社根源記」によれば、天照大神が天岩屋に隠れた時、神々が集って神楽を奏した土地が、この処に天降って山となったと伝える。山頂からの眺望は良く、東方は如意ヶ嶽を背景として鹿ヶ谷、浄土寺を見下ろし、西方は京都大学の学舎や多くの建物を望んでいる。 今回は京都大学の中でも特異な新旧の二つの建物を紹介する。旧い建物とは本部構内の図書館の北西隅にあるくすんだ存在である尊攘堂(そんじょうどう)である。明治20年、品川弥二郎がその師吉田松陰の遺志を継いで建てたもので、維新前後の志士の遺墨を始めとして、当時の資料を保存する。もと高倉通錦小路にあったが、明治36年京都大学に寄贈された。毎年10月27日の松蔭忌には祭典を営み、且つ堂内に所蔵品を陳列して、一般の観覧に供している。 一方新しい建物とは京都大学博物館を指している。まず、明治30年(1897)、吉田山麓に京都帝国大学が設立された。そこで平成9年(1997)は開学百周年の記念すべき年になる。そして明治39年(1906)には文科大学(現在文学部)が置かれたが、その時史学科陳列館の設立が立案され、責任者として青陵浜田耕作に白羽の矢が立った。明治42年28才で着任し、大正5年9月史学科に考古学講座が誕生した。浜田耕作は翌年初代教授に昇任した。一方、陳列館は大正3年に始められ、3次に及ぶ増築を経て、昭和4年に完成したのであるが、内外の研究者の往来がはげしく、日が浅いうちに狭隘化を来し、戦後には建物・設備の老朽化が進み、資料の活用が困難になった。そこで昭和34年に陳列館を博物館と改称し、博物館機能の回復とあらたな展開を計ったのである。こうして昭和61年7月新館が完成した。 開館記念特別展は「日本の中の京都」で、期間:昭和62年(1987)11月1日ー12月19日である。私は 11月3日に訪れた。展示内容は公家檜扇・後白河院院宣・殿上人日記・洛中洛外屏風など多岐にわたっていた。観覧券は200円、発券番号:000557号である。最近では昨年の秋季企画展「荘園を読む・歩く」期間:平成8年(1996)10月29日−12月7日を訪れた。最終日の7日である。東大寺領荘園・重源と浄土寺などの古文書に興味を覚えた。観覧券は220円、発券番号:604389号である。新館が公開されて9年になる。その間に春秋2回の展示が行われている。地味な企画展であるが、その度約3万名の一般観覧者が入場することはまことに結構なことと思った。 終わりに青陵浜田耕作教授の横顔に触れてみたい。教授は初め日本考古学と美術史を志したが、卒業論文では「ギリシャ的美術の東漸を論ず」と拡がる。そして京都に着任すると、内藤湖南・狩野直喜・小川琢治の学風に染まり、朝鮮・満州・中国に志向した。大正2〜5年の留学でギリシャ・ローマ・エトルスキ・エジプト考古学を研鑽する。それにもかかわらず、みずからを失わず、自己の考古学体系の樹立を貫いたのである。「先生のような考古学者は、古今東西を問わず、まことに珍しいのではあるまいか」と、愛弟子角田文衛博士は恩師を偲んでいる。角田博士は大著、新・旧の「国分寺の研究」を完成した方でもある。その上、ユーモアの満ちた日記をも記しておられた。その中の浜田教授の面目躍如とした挿話を拝借する。 教授は座談がお好きだった。「私はこの日曜に帝展に行きましたよ」と教授が言われた。「入場券を買おうとしていると、二人連れの女学生がいましてね、『あのう招待券が余っているのですけど、さしあげます』と言うのです。『はあ、有り難う』と言って貰いました。お陰で五十銭得をしましたがね、余りどぎまぎして女学生の服装を見ないでしまいましたよ。ところで家に帰って家内に話しましたら、『女学生が心おきなく言えるほど老人になったのですよ』とやられましてね。私はまだ老人と思っていないのに、もう若い人たちは老人と見るのですな」と言って笑われた。傍らに清野謙次先生(京大医学部病理学教授、しかも人類学・考古学の泰斗として名高い)がおられたので話は生理学的な老人論に及んだが、こうも言われた。「歳をとると、どうも物忘れがしますな。それで私は、ものを話すと時にいつも、『前に言ったかもしれませんが・・・』と前置きするんですよ。第一、歳をとると新しい経験が少なくなりますから、そう新しいことは言えんですね」。その日の出席者は両教授、角田博士(当時考古学専攻学生)その他10名ばかりだった。約60年前の昭和9年12月の話である。浜田教授のお年は55才位だった。 京都大学創立百周年の今年(1997)、その歴史を振り返ってみると、浜田教授はその前半をお作りになった方であり、われわれはその後半に係わりをもってきた。なにげないこの挿話は、思うに、この前半と後半の世の移り変わりを如実に物語っているともいえる。
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