2005.2.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

34.京のお地蔵さん巡り(九)

 

 

16.目疾地蔵<めやみじぞう>(東山区四条大和大路東入ル)

 四条大橋から南座の前を通りすぎて、大和大路通を渡ったすぐ右手に捜した仲源寺があった。繁華街のどまん中に“不自然”にたたずむこの寺はとかくあわただしい通りの人の目からは見落とされがちである。

 仲源寺と聞いてピンとこない人でも、「目疾地蔵」といえばすぐうなずく。七百余年にわたって、庶民から愛されてきたお地蔵さんである。門をくぐって突き当たったところに本殿があって、その奥にご本尊の木彫りの地蔵さんが座っておられる。大人の倍くらいの大きさ、玉眼入りで、ほの暗い堂の中でその玉眼がうるんで見え、あたかも風眼にかかっているかのようで“眼病平癒”のお地蔵さんらしい。

 「遠く四国あたりからも来はりまっせ。京の目疾地蔵さんいうたら全国的にも名前知られてまんネ」 横丁の古老は誇らしげに語ってくれた。

 寺伝をひもといてみると、この“目疾地蔵菩薩”には“あ”がついていて“あめやみ(雨止)地蔵”。鎌倉時代の安貞二年(1228)鴨川の氾濫のとき霊告によって洪水を防いだので、その報恩のため一体の地蔵尊を安置して、“雨止地蔵”と名付けた、とある。

 いまの「情緒の鴨川」は、そのころ“怒りの川”であった。雨のたびに洪水を呼び、付近の住民は逃げまどった。なんでも川域は東は縄手通、西は寺町通まであって、大川はアッという間に氾濫しては人命を奪った。決定的な洪水対策を持たない為政者や一般住民は、洪水退散を神仏に祈願するしかなかった。古記録にも「雨水九日にわたり家屋を壊し田苗を流し人畜溺死するも多し」と当時の悲惨な状況を伝えている。

 鴨川はまた、“死の川”でもあった。寛正二年(1461)の有名な京の飢饉のときには、「橋の下(今の四条大橋)に投げ込まれた死体は悪臭を放って、四条上流にるいるいと横たわり折り重なって、黒いカラスの群れが狂ったように死肉をついばんでいた」などという凄惨な記録も残されている。

 つまり、洪水防止の願いを背負って安置された地蔵菩薩が、いつの間にか“あめやみ”から“めやみ”にイメージチェンジしたのである。“あばれ川”はいま、若者たちの憩いの場と変わってしまった。願わくは目疾地蔵さんが、いつまでも“めやみ”だけであってほしいものである。


17.洗い地蔵(東山区大黒町通松原下ル西側 寿延寺内)

 冬の昼過ぎに松原通りを大黒町に折れると、赤じょうちんの並ぶ参道の見えるのが日蓮宗寿延寺である。その狭い石だたみを進んで、一瞬足が止められた。たちこめる線香のけむり、絶えぬ水の音、そばで老婆が真剣に念仏を唱えている。隣で腰の曲がったおばあさんが地蔵さんをたわしで、ごしごしこすっている。水道の水をくんで、赤茶けた小さな地蔵さんにかけながら無心にこすりつづける。たわしをにぎった右手が赤く、ひび割れを刻んでいた。念仏が、悲痛な叫びに変わり、涙声に-----しんしんと冷え込む境内の静寂をかき消して響き渡った。お堂の横に中年女性、老人が黙々と佇んで順番を待っている。無視して走り抜けられぬおごそかな雰囲気に打たれてか、思わずコートを脱いで目をふせていた。

 “洗い地蔵”本名を浄行菩薩という。お釈迦さまのまな弟子四菩薩のひとりで“水の神”水徳をもって身体の苦悪、邪心を洗い清めるといわれる。同寺が開創されたのは、徳川中期、約三百五十余年前。本堂にまつられていた菩薩が境内に出されたのが百五十年前。「ありがたい菩薩さまに外へ出てもらって、庶民の邪心をじかに洗い流してもらおう、とお出ましになったので‥‥」、以後参拝客が絶えず明治から戦前にかけては順番札を発行して長蛇の列が続いたという。付近に祇園、宮川町そして南座があったため芸妓さん、芸能人が圧倒的に多かった。

 「胃が悪い人は地蔵さんの胃のあたりを、子供が足に怪我をしたら足を、学生がマージャンにこってたら、手を一生懸命こすりまんのや。そしたら願いごと聞いてくれはりますのや。うちら芸妓やったら旦那の浮気どめにいうて地蔵さんの“前”をこすりまんのや。いまはムチ打ち症やいうて首をこすりに行かはる人が多いのとちがいまっか」先斗町の居酒屋の女将の話だという。

 遊女の消滅で水洗い地蔵は、戦後一時期すたれかけたが、公害うずまく人間不信の現代になって、かえってハダのふれあいが大切とされる“スキンシップ”時代がよみがえっているようである。一日のおまいり延べ百人前後。横丁の一角に、線香の煙と水音は絶えることがない。

 「大きな神社やお寺さんもええけど、お賽銭を上げて手をたたくだけではどことのうたよりない。じかにお地蔵さんにふれて頼めますやろ。そこがよろしおすなア」と八十近い老婆は言った。

 高さわずか1メートル足らずの小さな地蔵さん、冷たい水をかぶり、全身をゴシゴシ洗われながら、きょうも人びとの願いをだまって聞いている。冷たくて、ちょっぴりハダが荒れるけど、しあわせな地蔵さんである。