2004.12.1
藤竹 信英 (編集:菅原 努) |
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32.京のお地蔵さん巡り(七) |
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12.子育て地蔵(右京区西大路四条北東角高山寺境内) 子安地蔵、油かけ地蔵、歯形地蔵、足洗い地蔵、夢見地蔵------。京の町には地蔵さんにまつわる伝説にはこと欠かない。いまもなお横丁の路地裏に、町角にと、お地蔵さんがいたるところに生き残り“庶民信仰”を現代に伝えている。その頂点が夏の京わらべの祭り 高山寺本堂に安置される子安地蔵。その“代役”が境内にデンと居すわる。高さ3m余、日本一の大石像の地蔵さんだ。西大路四条北東角の市バス停留所から正門をはさんで見えるこの大地蔵にこんな話がある。 足利八代将軍義政の妻富子は“ファーストレディー”として当時権力をほしいままにしていたが、結婚して十年、男児に恵まれないのが唯一の悩みの種だった。銀閣を建て、もう引退を考えていた義政の跡目をめぐって、九代将軍候補がうわさにのぼりはじめ、富子のあせりは増すばかり。ついに、シビレを切らした義政はいったん僧になってしまった弟義視を将軍にしようとした。富子は思案の末、先祖尊氏が“地蔵信仰”であったことを思いだし、尊氏が滋賀県堅田付近から持ち帰ったという、この高山寺の子授け地蔵尊をみつけ出し、こっそり祈願をつづけたという。 すると、たちまち“願(がん)”がかなって男児出生、その子が義尚なのだ、という。が、義尚の出生のおくれはどうにもならず、以後富子はわが子に将軍を継がせるため、時の武将山名宗全持豊をかついで、義視派の細川勝元と十余年の長い戦乱に突入することになる。世にいう“応仁の乱”。男児出生に一役買ったこの地蔵尊、皮肉にも応仁の乱の“原因”をつくり、平安京を焼け野原にしてしまう。 以後、この地蔵尊の御利益はますます世間に広がり、“庶民信仰”としてふくれ上がり子宝に恵まれない女性の夢を託して、現代に生きつづけている。“子育て地蔵”の由来は、京に古くから伝わる“地蔵和讃(じぞうわさん)”から来ているらしい。 むかし、このあたりは、西院の河原といって、死者を葬ったところだった。そこにある日、親兄弟をなくした子供がやってきて“これは父のためこれは母のため”と石を一つずつ積み重ねて石の塔をつくっていたところ、地獄から鬼が現れ、塔をこわし、子供をたべてしまおうとする。そこへ地蔵尊が現われて子供を救う‥‥という話。その地蔵尊がこのご本尊だという。この有難いお地蔵さんを称える歌、“地蔵和讃”の中の一つを紹介する。 地蔵和讃(現行)
明治33年、都市計画のため“お土居”がほり起こされたとき、大小さまざまの地蔵さんがまとめて、このご本尊の高山寺に集められ、同35年、黒谷山麓から代表格として大石像が境内に引っ越して来たのである。
13.桶取り地蔵(左京区静市市原町738-1更雀寺内地蔵堂) 鎌倉期も終わりのころ、壬生寺の近くに松並千歳という白拍子が一人の娘と住んでいた。娘は照子といって、容姿は美しかったが、どうしたことか、生まれついて左手の指が三本しかないという不自由なからだだった。そこで、娘は壬生寺に日参、また道すがらのお地蔵さんに祈るのだった。 「‥‥どんな因果かは知りませぬが、来世こそは、不自由でないように生まれさせてくださいませ」 そして家に近い尼ヶ池の水をくむと、お地蔵さんの閼伽(あか)水として、お参りは一日たりとも欠けることはなかった。ところが、そんな壬生寺に、その娘と同じように日参する男が一人あった。名を和気俊清といい、妻がいた。が、ある日二人は境内でバッタリ顔をあわせ、俊清は娘に一目ぼれ。いつしか、お互いに馴れ合う間柄になってしまった。 「わたしという妻がありながら、なんという‥‥」 怒ったのは俊清の妻。嫉妬に狂い、やがてそれがもとでとうとう狂死してしまった。 地蔵参りが縁で知り合った二人だけに、俊清にも照子にもショックだったのはいうまでもない。 「ああ、不憫なことを‥‥」 二人は道ならぬ恋の非を悔い、亡妻の菩提をとむらうため出家するのだった。 「壬生寺縁起」にある話である。そして、この縁起を狂言化したのが壬生狂言「桶取り」と伝えられる。 左京区静市市原に更雀寺という寺がある。この寺はかって四条大宮西にあって、門前に大きな地蔵堂が建っていた。それが、この「桶取」に由来する桶取地蔵尊をまつる御堂であった。寺には古くから、一人の女が閼伽水を入れた桶をのせた絵が伝えられてあるという。それは、尼ヶ池に水をくみに通った娘・照子の姿をうつしたものであろうか。その尼ヶ池は、三条通り千本西の福田寺に今も残っている。 ところで、照子と俊清の悲話を伝える桶取地蔵、いつのころからか中風、脚気にご利益があると、信仰を集めるようになった。旧正月の三ヵ日、寺で湧かす御香水をいただくと、霊験あらたかとか。戦時中は、戦地の夫や息子に、この水を送る人も多く、また戦後の食糧難時代には脚気の人が信仰したという。
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