2004.10.1
藤竹 信英 (編集:菅原 努) |
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30.京のお地蔵さん巡り(五) |
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8.尼ヶ池身代わり地蔵(中京区壬生天池町) なんて不気味なのだろう。このお地蔵さんは。肩口からクビをバッサリ切りおとされて、地蔵盆などでこどもたちにかこまれた、あの親しみ深いお顔がないのだ。石の祠には、小さなからだだけが深く沈んでいて、つめたい空間をポッカリあけている。そして、その前に、こんどはからだのないクビだけのお地蔵さんと、また、クビのないお地蔵さんが二体。三条通りから南に入り組んだ路地の奥。かって華やかさを誇った跡の、この地に、往時から伝えられるお地蔵というには、あまりにも痛々しい。 朱雀院に、美しい女官がいた。後宮につかえる身分で、教養も深く、そのうえ信心に厚く、庭内にまつられた時姫弁才天と地蔵尊にお参りするのが日課、願い事があればまいり、かなえられれば参り、ほとんど欠けることがなかった。 「感心なおなごじゃて。めずらしく出来た女性よのう」 院内では、何時しか評判になり、この美しい女官に思いを寄せる男性は少なくなかった。とりわけ二人の男性は熱心だった。一人は貴族、一人は身分の低い下級官吏だった。 女官は二人の思いに困惑してしまった。「どちらと結ばれても、一人が傷つく。いっそお地蔵さんが選んでくだされば------」 そんな彼女の悩みを知らなかったのは下級官吏。「しょせん身分の違うライバル。いくら信心厚い女性といっても、勝負は決まっている。あんな貴族の妻になるのなら、その前に‥‥ 男は女官を殺そうと考えた。そして、ある晩、彼は、朱雀院に忍び入った。彼女はスヤスヤと眠っていた。窓からこぼれいる月明かりが美しい寝顔を白く照らしていた。彼はやにわにかくし持った刀を抜くと、一気にクビをかいた。 「カチン!」 コロコロと、枕元にころがったのは、血に染まったクビでなくお地蔵さんのクビではないか。女官の信心に、地蔵尊が身代わりになったのだった。下級官吏は、浅はかな自らの心を悔いて、彼女を諦めたという。 お地蔵さんは、いま朱雀院跡の妙心寺派福田寺にまつられている。小祠前の二体のお地蔵さんは、こんな伝説を知ってだれかがおまつりしたのであろう。美しい女官の伝説を知ってか、知らずにか、いまも、小祠前にはお線香とお灯明の絶えることがない。
9.地獄地蔵(中京区三条通り寺町上ル 矢田寺内) 天慶(938−946)の頃、大和の国に武者所康成という男がいた。幼少の頃から緑の山野をかけめぐり、狩を得意とするたくましい青年に成長したが、ある日やさしい父が突然、病いで亡くなった。母がすぐ継父を迎えたため、この青年の運命が暗転した。残虐な継父は、ことあるごとに康成をいじめ抜き、耐えきれなくなった康成はついに継父を殺すことを決意した。 「憎い父がいなくなれば、再び母と一緒に平和な家庭がよみがえる」 青年の憎しみがついに爆発した。ある闇夜の未明。青年は狩装束に身をかため、刀を手に父母の寝室に“夜討ち”をかけた。 「死んでもらいます」とばかり、暗やみの寝室めがけて乱入、一刀のもとに首を切り落した。がどうだろう。その首はやさしい母親の首ではないか。 「あ、母上。母上だ。なんとしたことを‥‥」 康成はあわてふためき、頭をかかえ込んだが、あとの祭り。継父は夜討ちを見破り、逃げたのである。 あやまって母を殺した康成は、ざんげのため近くの地蔵さんに日参し、救いを求めた。しかし康成のショックは大きく、間もなく病死、地獄へ落ちることになったが、そのとき“地蔵”があらわれた。地獄入り寸前を拾われて、三日後、地蔵さんの力で再び現世によみがえった。 康成を地獄から救ったこのお地蔵さん。別名を地獄地蔵、生身(なまみ)地蔵といわれる矢田寺の御本尊。奈良時代末期、満慶上人という人が地獄の閻魔大王に招待されたとき、八寒八熱の地獄の中で一人のお坊さんが黙々と地獄の責めを受けているのを見てびっくり。なぜかと声をかけると「わたしは世の多くの人たちの苦しみを身代わりしているのです」との返事。いたく感激した上人が現世にもどって、その坊さんの生きうつしを刻み込んだ、というりっぱなお地蔵さん。天正七年京に移り、いま寺町通り三条の商店街の一角にある矢田寺に鎮座している。 火炎を前に、本堂奥に鎮座する地蔵尊だが、天明の大火のときには町かどへ踊り出て、飢えた人たちを救った、ともいわれる。体当たり、行動派の男らしい地蔵さんに、今も参拝客が絶えない。“嫁に行きたいと祈る娘”、“子供がほしいと願う女”、“朝から家を出て、デパートをあてもなく歩き回る老人の家族”、“夫の女狂いに悩む主婦”――参拝人名簿の下には、ひとつひとつ、悩みが浮き出ている。京の繁華街のド真ん中。今も残る一つの風景である。
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