2004.7.1

 

藤竹 信英

(編集:菅原 努)

 

27.京のお地蔵さん巡り(弐)

 


2.釘抜地蔵(上京区千本通上立売上ル東側 石像寺)

 “苦抜き地蔵”で知られた釘抜きさん。何時、訪ねても線香と供花の絶えていたことはない。地蔵堂の四方をぐるりとり巻いて二重、三重に打ちつけられた、お礼参りの八寸釘と釘抜きの絵馬、頭上をおおった大小数十のちょうちん。境内の、摩(さす)ればご利益のある大きな鉄の釘抜きも、参拝客の手にみがかれて、てらてらと美しい。

 室町末期――正確には後奈良天皇の、弘治二年(1556)に時代はさかのぼる。油小路通上長者町に紀ノ国屋道林という商人が住んでいた。商いは順風満帆、なに一つ不足のない生活だったが、二、三日前から、困ったことが起こった。とくに重たいものを持ったわけでもないのに急に両手がキリキリと痛み出したのである。ハリに灸に------痛みに効ありと聞けば、なんでもためした。けれども、病はよくならない。

 「ああ、痛い!いっそこの手を切り取ってしまいたいくらい」
 そんなある日、出入りの商人がいうには、
 「千本のお地蔵さんがご霊験あらたかじゃ、と聞いておりますが、一度ためされては---」
 道林さん、ワラをもつかむ気持ちで出かけると、七日間の“お千度参り”の願をかけた。
 そして満願の日だった。お地蔵さんから帰ると、お千度参りに疲れてホッとしたのかウトウト眠りについた。と、夢の中に、不思議や、お地蔵さんが、すっと立っておられた。
 「汝、手の痛みは常の痛みにあらず。前世に人を怨み、仮の人形をつくり、その両手に八寸釘を打ち込んで呪いたることあり。その罪が汝に返りたるに苦しみを受く。我、神力を持って、その釘を抜き取れり。これを見よ」

 お地蔵さんの手にはいつの間にか、八寸釘がにぎられている。しかも、手の痛みもすっかり消えているではないか。そればかりか道林さん、目がさめて地蔵堂にかけつけると、お地蔵さんの前に、真っ赤に染まった二本の釘が置かれていた。


3.お首地蔵(北区北野東紅梅町)

 紙屋川橋のほとりと、噂に聞いた。頭痛、歯痛など首から上の病に霊験あらたかなお首地蔵さんは。

 京福電鉄北野線白梅町駅から東の一筋目を上がって50m。右手にひなびた小祠があって、なるほど、軒の額に「お首地蔵尊」とあった。暗い祠内をのぞくと、半伽坐像のお地蔵さんにまじって、ひときわ背の高いお地蔵さんが二体鎮まっている。足もとと腰に生々しい傷が横に走って痛々しいが、からだのわりには大きなお顔は、いつものふくよかな笑を浮かべている。

 それは、百数十年も前のことだったろうか。いまでこそこのあたりは民家が並び、人の往来もはげしいのであるが、当時このあたりは重なる災害で荒れるにまかせていた。そのうえ、夜な夜な辻斬りが出るという噂。人々は昼間でも外出におびえた。

 「困ったことじゃ」
 「なんとか、辻斬りを追っぱらう手だてはないものかのう」
 寄るとさわると、もうこの話で持ち切り。良策が毎日のように練られた。ある人が、
 「これまで殺された人も多い。そこで、これらの人々の菩提を弔う意味で、お地蔵さんをおまつりし、そのうえ、辻斬りからわれわれを守って頂こうじゃないか」
 「それはいい考えだ」
 反対はなかった。人々は早々に、三体のお地蔵さんをおまつりして、辻斬りよけを祈った。
 それから何日たっただろうか。不思議なことにバッタリ辻斬りは出なくなった。
 「やはり、お地蔵さんのおかげじゃ」
 「ありがたいこって。なあ、みんな、お地蔵さんにお礼を言おうじゃないか」
 ぞろぞろお地蔵さんの前までやってきて、人々は、「アッ!」と驚いた。
 三体のお地蔵さんのからだが、バッサリと切られているではないか。お地蔵さんは人々の身代わりになられたのだった。

 というわけで、以後、どうしたことか、このお地蔵さんはなんでも願いをきいていただけると、評判になって‥‥。とくに首から上の病いには霊験あらたかで、人々の信仰をあつめたと言います。

 もともと、お首地蔵さんは三体でしたが、それが、そう、もう十年も前でしたでしょうか。御前通七条を少し下がった日影町の人から、ぜひおまつりしたいと言うわけで、ええ、持っていかれて‥‥。いまは二体だけなんです」

 世話役さんの話はゆっくりと続く。

 無造作に差した祭壇の供花。バラバラと置かれたおさい銭。なんでも聞いてくださるお地蔵さんに白い色が混じったおさい銭はなにをお願いしたのであろう。