2004.1.1
藤竹 信英 |
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21.京の五条の橋の上・・・東山区五条鴨川畔 |
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しかし、二人が五条の橋で戦ったという話は、実は『平治物語』にも『義経記』にも一言も触れてはいない。では、全く虚構だったのかというとそうでもない。そこまで至るには二人が清水寺の縁日に再び出会い、本堂の舞台の上ではげしく切り合いをしたということが『義経記』にみえる。だから同書の成立した室町初期頃までは五条大橋や清水寺が二人の戦いの舞台であったわけである。それを五条の橋の方へ舞台を移すに至ったのは永亨年間(1429-40)に成立したと思われる御伽草子『弁慶物語』二巻によるものらしい。念のためその本文を摘出してみる。
と。これを敷衍潤色したのが同じく御伽草子の『橋弁慶』や謡曲の『橋弁慶』で、いずれも五条橋を舞台としている。 それにしてもなぜ旧説を曲げてまで。五条橋にむすびつけたのだろうか。その理由についてはつまびらかでないが、五条橋説は『弁慶物語』の成立する以前から、すでに世上に流布してしまっていたのを無視することができず、あえて作者が採り入れたものではなかろうかといわれる。 勿論この伝説の舞台となった五条橋は今の五条大橋より一つ上流に架かる松原橋の位置にあった頃のことをいったもので、橋を渡ると六原を経て清水寺に至るから一に清水橋ともいい、橋の修理は清水寺が募金しておこなったから、また勧進橋とも呼ばれた。この橋の架橋については明らかにしないが、史上に於ける初見は『百錬抄』にみえる「保延五年(1139)六月二十五日、清水橋供養」という記事であろう。また平治の乱には平家の兵士達が五条の橋の橋板をこわして楯とし防戦につとめたことが『平治物語』にみえるから、おそらく平安末期頃の架橋とみられる。それを天正年間(1573-91)豊臣秀吉が大仏殿を造営するに当って伏見との交通の便を図るため橋を六条坊門小路に移し替えて五条橋と呼び街路の名も五条通りと改めたから、もとの旧五条通りは松の並木道にちなんで松原通りと呼び、橋の名も松原橋と呼ぶに至った次第である。 現在の五条大橋は昭和三十四年三月の改修になるもので、橋の長さは六十七メートル、幅は三十五メートル、御影石の高欄、青銅の擬宝珠は昔の面影をとどめているばかりでなく、近年橋の西詰のグリーンベルトに造られた牛若・弁慶像は、御伽草子の中から抜け出てきたような愛くるしい姿に通行人の目を引きつけ、いよいよこの伝説の高揚にあずかっている。
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