2003.12.1
藤竹 信英 |
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20.火の神天満天神 |
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菅原道真公を祭る天満宮に、こうした社名がある。藤原時平一味の策謀により太宰権師に左遷された菅公は九州筑紫におる事三年、延喜三年二月二十五日五十九才で亡くなった。その頃から年々天災が続き、これを悉く菅公怨霊の仕業と決めてしまい、遂に菅公は雷神とされ、火事の神とされてしまった。雷神と霰神(水の神)とは兄弟であり、その親が火の神と言われている。 水火天満宮の縁起には、菅公歿後雷火の災いが多かったので、天皇は延暦寺の僧、法性坊尊意大僧正に勅命があり、参内して祈祷せよとの事で、山を下り御所へ向かわんとしたが、折柄の大雷雨で鴨川の水は大氾濫、涛々と濁水が流れているので、渡ることも出来ない。 話のついでに述べると、この尊意という人は菅公が師事していた大学者で、この僧正の里坊は、この水火天満宮の土地で「西陣下り松」と言っていた。この坊へ菅公が再三訪問せられたという。 話を元に戻して、尊意は水面に向って神剣をかざして勅命により参内するのだ、道をあけよと祈念せられると、この鴨川の水がさっと二つに分かれる。見るとその中央の岩の上に菅神の神霊が現れ、忽ち昇天されるのが見えた。その時さしもの大雷雨もハタと止んだ。尊意はその岩を渡って無事に参内した。その鴨川内の菅神昇天の岩の一片を取ってこの神社の境内に祀られ「登天石」と言っている。 また、菅公は大変天皇に尽くしていた人だったのに、後世の人はその怨霊が何とかして復仇のみに専念したように変えている。だから、この尊意大僧正との問答にも菅公の亡霊が、「何とかして仇討がしたいから、貴僧は一切手を引いてほしい」と頼んだが、尊意は「よろしいが勅命のあった時には、貴方の企てを妨げないとも限らぬ」と言うと急に顔色を変えて、傍にあった柘榴をとって、一口かぶり、パット吐き出すと忽ち猛火となって燃え上ったが、尊意は手早く瀉水(しゃすい)の印を結んだので、さしもの猛火も、瞬く間に消えたが、戸や障子だけは焦げたという。 こうした事はすべて後世の人の作意になったものと言ってよいのであるが、それというのも御霊信仰に怯えていた人々は、一も二もなくこうした事をすっかり信じてしまって、菅神を火の神、雷の神にしてしまったのである。雷から火事になる事は多い。延喜八年六月御所内清涼殿に落雷があって火事となり、民部卿藤原清貫、右中弁平希世が亡くなっている。この水火天満宮も火除天満宮も共に菅公を祀っての、特に火に対しての恐怖が信仰になってこうした名称の天満宮の名となったものである。 一般に菅公は天神様として尊ばれている。天神とは文字通り天の神であって、北白川天神、五条天神等は共に少彦名命(すくなひこのみこと)を祀っている。菅公は天満大自在天神と言われているのだから、正しくは「天満天神」と言うべきところを、天の神の天神と混同して、「天神」と言えばすべて菅公の事と思われてしまったのである。その上、雷は天で鳴り響くので、雷神も天の神と見なされ、菅公=雷神=天神ときめられてしまったのである。われわれは菅公を祀って文筆の神、文学の神として認めたいと思うが、一般信仰では、絶対に火雷神としての信仰が強いのである。別して田舎に行くと、至る処に天神社があるが、大方菅公を祀っており、そして火事がおこらないように、落雷がないようにとの村の平安無事安泰を祈っての鎮座である。 北野天満宮に詣って火霊を除く信仰には、もう一つ混同した話があって、北野天満宮三光門の外にある四つ同型の摂社の内、東北の「火之御子社」があって、北野天満宮を祀る以前から祀られていて「北野ノ雷公」と称え、火雷神を祀った。雷、火難、年穀守護神として古くから記録があり、六月一日を例祭日とし、この日神符をだされる。こうした事も菅公=火雷神とされたからである。 祇園祭には二十九の山鉾がでるが、何れも何かの由緒がある。錦小路の霰天神山は永正年間、この付近に大火事があった時、時候はずれの霰がふって、そのため大火事も消えてしまった。皆が不思議に思っていると、霰に混じって一寸二分の菅神木像が屋根の上にあった。これは、全くこの菅神が霰を降らせて火事を止めて下さったものと崇めて、霰天神として祀り、火除けの天神として崇敬し、町名も霰屋町といった。その後も火事があった時、 こうした天神信仰が京都では愛宕神の次に火の神様としての信仰があるが、さりとて京都の人は今日では天神を火の神様と信じている人は極く少ないように思われる。
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