2003.11.1

 

藤竹 信英

 

19.祇園会の鯉山

 


 半兵衛老人は京の中心地帯に生まれ、生ツ粋の京都ツ子であり、若いときからの世話好きで種々の会に関係し、学区の功労者で生き字引とまで言われた人であったが、息子さんが立派に其の家業をつがれてからは公私の職を断って、こうした静かな処に別居したばかり、京の話はいう迄もなく、どんなことでも知っていると云う愉快な老人である。

 「御新居のお祝いがてら又お話を伺いたいと思って参りました。いつもお元気で結構に存じます」
 「お蔭で体は相変わらず元気だよ。それに少々落ち付いて来たので、好きな本など引っぱり出したり、あちこちのお宮やお寺を訪ねるのを、何よりの楽しみにしている。チト一諸に出かけないかい」
 「結構です。是非お伴をさせて下さい。時にもう祇園祭も近づいてきましたが------」
 「困ったネ、祇園祭と云うのはないよ。あれは祇園会(え)と云って貰わないといけない、祇園御霊会(ごりょうえ)と言うのを略して祇園会(ぎおんえ)と云うのだから祭ではない」
 「へーえ。お祭と違うのですか」
 「似た様なものだから祭として見るのも差支えはないが、其の根本問題にふれると御霊会と祭は少し違う。今そんなことを云うても通らない世の中になったのだから、どうでもよいがと云えばまあ、それまでだよ」
 「そんなものですかね、あれは八坂神社の祭の様で、神社に関係がないらしいですが妙ですね」
 「山鉾の行列は氏子のやる私祭で、夜の神輿渡御が神社の祭礼と思えば間違いはない」
 「いつも思うのですが、山鉾町の人々は氏子とは云え豪い犠牲を払っているのじゃありませんか」
 「その通りだよ。こんな事でも放任しておくと山鉾も動けなくなってしまうよ。何しろ今では八坂神社の氏子の祭と云うより京都市全体の祭の様なものだから、僅かな修繕費の補助だけではなく、もっと巨額な補助をしてやらなくてはいけないよ。その意味に於いて昔は寄町が“地の口”と云って補助する制度が氏子へ割当てられておった等、昔の人は考えが深かったのだね」
 「“地の口”と云うのは何ですか」
 「“地の口”と云うのは、例えば函谷鉾には寄町として室町高辻下ル高辻町、寺町四条下ル貞安前町、高倉松原上ル葛籠屋町等々の町が補助金を交付する習慣になっており、それ等の町が山鉾巡幸の道順だと茶を出したり接待をする事になっていた。明治になって此の制度はなくなったが、少なくとも山鉾町以外の氏子各町はそれぞれ多少共入費を負担するか、人物の補助をすればよいと思うよ」
 「御尤もですね。御言葉のように財団法人にでもして数ヶ所の“地の口”がその一部に加担してゆく様にでもなれば、まだ山鉾巡幸の継続性に望みがありますね」
 「ソリヤ良い考えだ!山鉾町一ヶ町だけが法人組織になるより一層よい方法だろうと思う。何と言っても現代人には感じられないことかも知れないが、法人組織なんかと云っていない古い時代に氏子であるため、他町の山鉾に対し補助しておった事はよい話じゃないか。よい話と云うと清廉潔白が反って争いとなり、その解決が「鯉山」となったと云う伝説を知っているかネ」
 「ヘーエ、清廉潔白が喧嘩になりますか、面白い話ですね。いまでも正直に
真面目に町内のために働いて、反って変な方にとってしまって正直者を困らせている話もないことはありませんがね」
 「そんなのがあるかね、やはり--------、困った連中だね。その点「鯉山」の由来なんか、チト薬にしてやるとよいね。それはこんな話なんだ。
現在の室町六角下ル所が「鯉山」の出る町である。この町にずっと古い昔のこと、露地に住まっている大層正直な独り者がいた。すぐその近くに其の長屋の大家さんの家があった。この大家と云うのが又大変曲がったことの嫌いな男であるが、よく借家人の面倒はみていた。或る時、この大家がその正直な独り者の宅の入口で話しこんでいたとき『近年にない馬鹿を見てナ』と云い出した。それは所用あって大津へ行き、渡し舟に乗って湖水に出たとき、懐中していた手拭をだそうとしてどうしたはずみか先程受取ったばかりの小判を湖中に落としてしまった。早速人を頼んで捜して見たがわからない。で、大家は-----これは自分に授からなかったものだろうから------と諦めて戻ってきたが、『人様に云うのも馬鹿げた話でナ。詰らぬ目に遭ったものだよ』と云うのである。『それは酷い御災難でしたナ』と話し合ってから二、三日して、この独り者が大津から売りに来た川魚屋から鯉を一尾買い求めた。夕飯の御馳走にと料理をしていると、ナント、その腹の中から小判が飛び出してきた。コレは不思議だ、先日大家さんが湖水で落したと云う小判がこれであるかも知れない。これはよい物が手に入った、早速お返しして大家さんを喜ばせようと、料理もそのままに大家の宅へ出かけていった」
 「ナント正直な男ではないかい」
と半兵衛老人はここで感心した様に考え込み乍ら、もう冷えかかった緑茶を一息ぐっと飲み干すと、
 「それからが大変なんだ。この男は大家に会い、『お話の小判はこれではありませんか、お返しに上がりました』というと、『成る程私の落した小判らしい、然しこの話はチット可笑しいじゃないか。第一私はもう湖水へ落したものなんだから二度と手に戻ろうとは思っていない。あんたはたまたま鯉を買った、ところがその腹からこの小判が出てきた。しかしだね、あんたが買った鯉の中から何が出ようとそれは皆あんたのものじゃないかネ、だからそれはあんたが持ってお帰り』と。どうだね、この大家も豪い男じゃないか。今時こんな人物はいない、ところがこの独り者もそのまま帰ろうとはしない。仮令買った鯉の中から出たものであっても、あなたのものと知れているこの小判をどうして私が持ってかえれますか、是非お返し申しますと頑張る。大家は受取らぬと云う。遂にこの争いは上役人へ訴えでた。「役人もよく調べてみると双方共に私欲を離れた美しい心の持主であることがしれた。そして相変わらずその小判を返すと云い、受取らぬと云う。役人もすっかり感心して、この美しい争いは後世迄も美談として残したい。就いては双方共小判を受取らないのだから、幸い同町に住いしている彫刻の名人左甚五郎?に頼み、その金で鯉を彫らせ、それをこの町内より祇園会に鯉山として出すことになったそうだ」と老人は話をうまく纏めたのである。