2003.10.1

 

藤竹 信英

 

18.京にある崇徳廟

 


 春四月、京都は祇園の都踊で花が咲く。この歌舞練場は、元建仁寺塔頭福聚院(たっちゅうふくじゅいん)の跡である。この歌舞練場の裏に小高い丘があって、その上に小さい五輪塔があり、阿波の内侍の墓と言っている。その少し東南には土塀に囲われた一廓があって、石垣に囲われた中に「崇徳帝廟(すとくていびょう)」という石柱が立っている。狐格子の開き戸があって、その横の竹筒には何時も供花の絶えることがない。僅かな土地だが官有地になっており、皇室には何等関係のない土地ではあるが、以前、此処を取こぼって売却の話があった際、仮りにも天皇廟として崇拝されているものを、との世論が厳しくて、取止めになった事もある。

 ここは藤原鎌足が、その風景を愛でて紫の藤を植え家門の隆盛を祈ったので、藤はここの名所となり、藤寺又は花の寺といったという伝えがある。崇徳天皇は藤花がお好きで屡々行幸になった。あるとき白衣の童子が忽然と現れ、この藤の花は大職冠鎌足の植えたものである由を言上した。そこで天皇はここに殿舎を営んで、寵妃阿波内侍を住まわせ絶えず通われていた。ところが保元の乱によって崇徳上皇は讃岐に配流の身となった。だが阿波内侍はお供出来ず、御所に残って朝夕讃岐のお上の御身をお案じしていた。その後讃岐より形身にせよと、お自筆の尊影並びに御随身二人の像とを共に画いて内侍に贈られた。又配所で書写せられた五部の大乗経に御製一首

浜千鳥あとは都に通ふとも
  身は松山に音をのみそなく

を添えられ都の内に収めんと、仁和寺宮を通じて上奏せられたが、小納言信西(しんぜい)が、若し呪詛の御心もあらんとざんしたので、この御経は送り返されてしまった。上皇は大層お怒りになり、十八万六千の魔王の棟梁となって、天下を朕がはからいになさんとお誓いになり、御指の血しおを染めさせ給いて一つの御願文を認め給い彼の大乗経の筥に「奉納竜宮城」と記し堆途(ついと)と言う海底に打沈め給うた処忽ち海上に燐火燃出(りんかもうだし)童子波上に舞踏したのを御覧になって所願成就せりと宣い給い、其後は爪髪を延びるがままになし、人間らしいことは一切断ち六年の後長寛二年(1164)八月二十六日、四十六歳で崩じられた。その遺骸をどう処置してよいかわからないので、野沢井池に沈めて京へ伺いをたて、二十数日後白峰で火葬し其地を陵とすることになった。これが白峰陵である。

 その後、尊霊がこの地に現れ、夜な夜な光を放ったというので、京の街の人々は恐れてここに光堂を建て其御霊をお慰め申し上げた。阿波内侍は上皇崩御を悲しみ、剃髪して仏種尼と改め、其遺髪を請いここに埋めて廟として明け暮れ奉仕した。だがこれは一に上皇形見の衣服を埋めて塚を築き廟として、密かに祀られたものと思われる。そして、自らも花藤御廟に隣りして葬られたのであろう。其の後百年、亀山院の御宇(1259〜1273)大円法師という密家の碩徳修練の行者があった。ここに彼の霊光を見て、御所に参篭し跌跏(てっか)持念した。夜おそく崇徳帝尊体を現したまひ、勅して御所に来縁あることを示宣し給うた。大円法師深く此の義を感じ、奏聞して勅語を蒙り文永年中御所に寺を建てて勧勝寺光明院と称し、崇徳上皇の尊霊を祀られて、大円法師、住職となった。それから四百余年というものは、度々の兵火等にて何もかも焼滅し、ただ古址のみが残っていた。元禄八年(1695)、洛西花園の東安井村にあった蓮華光院をこの地に移され旧事を慕い、新たに讃岐国象頭山から金毘羅宮を模して、殿舎が見事に出来て再び藤の名所として知られるに至った。

 本殿には中央に崇徳院、左、金毘羅大権現、右、源三位頼政を祀り、額には「崇徳天皇」とあり安井の金毘羅とて毎月十日は終日群集に賑わい、京洛群参神の巨擘(きょはく)であったと記されている。其頃の図を見ると本社の前には絵馬堂、御輿蔵、神楽所があり、本殿につづいて能楽殿、それより小川を渡ると準提堂が東向、其前に通う権現妙見宮、瑜伽権現の小堂等があちこちにあり、池の中には弁天祠、其北に御影堂、毘沙門堂があり、稲荷祠、三社、天満宮も見え、相当立派な境内であった事が知られる。此前東一帯は,月見町を隔てて真葛ヶ原、東山に連なる景勝の地である。

 明治になって神仏分離となり寺仏像一切は北嵯峨大覚寺門跡へうつされ、其址は小学校が建てられて安井校といった。金毘羅宮はそのまま残り、表通は東山大路となって電車が敷け、この石鳥居の柱は四角であるのが珍らしい。今日では祭神は崇徳天皇、大物主神、頼政の三柱となし安井神社と改称して現存している。今では一部の人には安井の金毘羅さんで知られ、余り水に縁のない京都であるから船頭さんのお参りは知らないが、酒、女、賭博の三道楽を断つ誓いを立てて祈願するものも多く、そうした小絵馬が沢山に見受けられる。「女房以外の女 三年断ちます」、「禁酒一年間」、「花カルタと賽に錠をおろし心とかいて何年禁」等、その例である。

 本殿の東に〔絵馬館〕がある。江戸時代以降、当社に奉納された大小さまざまな絵馬が多数陳列されている。傑作は明治二十二年(1889)に奉納の「男断ち祈願の絵馬」である。

 「わたし儀、是まで男さんを持って困りました故、此度心を相あらため、男さん一切御断り、私の心あかすため、男さん相立ち候ゆへ、口で申候はば心の内が知れず、これより右次第を私の心ならびに髪を奉納し、今日より改心いたし候、これ-----。
但し三ヵ年間之事 五十四歳の女」

 神社の周囲は待合(席貸し)が多く、雇仲居という芸者まがいの女が出没し、祇園廓に接続する特種な一劃をなしている。この地は、先に述べた崇徳天皇の寵妃阿波内侍や白河法皇の祇園女御が囲われていた処であったから、むかしから妾宅地としてふさわしい処であったのであろう。