2002.12.1
藤竹 信英 |
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10. 高雄 神護寺(つづき) |
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「咲く花の匂うがごとく……」とうたわれた奈良時代も、東大寺の大仏開眼のころを頂点として次第に頽廃し、貴族、僧侶の堕落には著しいものがあった。道鏡の事件もその一つである。この頽廃に終止符をうち、新天地の活路を見いだそうとしたのが、桓武天皇の平安遷都(延暦十三年)であり、和気清麻呂はこの遷都の有力な推進者の一人であった。奈良仏教の行きづまりは、天平彫刻を形式的存在に陥れ、もはや新しい時代精神にこたえる力をもち得ず、それ自身の内部からの変革を求めていた。桓武天皇は、延暦八年、東大寺の造営をつかさどる役所と共に造仏所まで廃止する。官寺でつくられた乾漆や塑土の仏像にかわって、民間の私寺でつくられた木彫の仏像が、新時代の要求にこたえるべく歴史の表面にあらわれてきた。貞観彫刻のたくましく、きびしい性格は、最澄や空海による密教弘布にさきだって、奈良末期の精神的頽廃の危機意識のなかから、それを克服するものとして求められたのであろう。 それにしても、これはどう表現すればよい仏像であろうか。ヒノキの一本造りだが、両手の肘からさきは後世の補修だから、これは無いものとして見ればよい。われわれはまず全体の堂々とした威容、体躯のはりつめた量感に圧倒される。たくましい頸から力強くはり出している両肩、そこから胸と腹にかけての緊張、深く刻まれた衣文をおしのけるようにもりあがっている両もも。量感は彫刻にとっては特に重要な性格の一つであり、ギリシャ彫刻にも、ルネッサンスの彫刻にも、また天平彫刻においても、それぞれ量感を所有する。しかし、神護寺の薬師像の量感には、他のどの彫刻の量感ともまったく異なるもの、何か桁はずれのものが感じられる。 貞観時代における肉体の肯定は、官能性の強調という形でもあらわれた。その点でよく知られている作品は河内の観心寺の如意輪観音であろう。肉感的とさえいえるこの妖艶な官能性は空海によってもたらされたものであり、それまでのわが国の彫刻にはまったく存在しなかった新らしい要素であろうが、これと貞観彫刻全体の特徴である量感の強調とが全く無縁だとは思われない。むしろ逆に、この時代における肉体へのめざめといったものの上に、空海によってもたらされた密教美術が官能性をもりあげたというべきだろう。そして肉感的な蠱惑(こわく)は、ここでも、精神の充実としてあらわされねばならない。そのような精神と肉体との均衡を実現したものとして、われわれは神護寺五大虚空蔵菩薩像をもっている。 本堂の横を少し登ったところに多宝塔があり、そこに五大虚空蔵が安置されている。記録によれば、この五像は承和三年(835)から嘉承三年(850)の間につくられ、かつ当初は、今日のように一列に並んでいたのではなく、白色の像を中心にして、それを他の四体がかこむ形で安置されていたようである。五像の彩色によって今日の配置の順序を見れば、むかって左から、黄、黒、白、赤、青、の順である。色彩は今日ではひどく剥落しているが、鮮かな色を帯びていた往事をしのぶよすがを今もなお感じとることができる。これらの像は一本造りであるが、その上に乾漆を塗って弾力のある肉体の感触を表しており、ふくよかな顔は端厳でありながら、しかもやわらかな官能性を秘めている。この五大虚空蔵の作者は、観心寺如意輪観音の作者と同一人ではなかったかと目されており、すくなくとも同じ系統の作風とみなされるが、著しく女性的肉感的な如意輪観音にくらべて、この五像にあっては、肉体を律する精神の力が強く前面におしだされている。
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