平成14年健康指標プロジェクト講演会要旨 |
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第34回(10月19日(土) 14:00〜17:00、京大会館)
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PTSD(外傷後ストレス障害)の脳科学
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加藤 進昌 (東京大学大学院医学系研究科精神医学) |
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PTSD(心的外傷後ストレス障害)という病気はアメリカで確立された概念ですが、わが国でも阪神大震災やサリン事件などで一挙に一般化しました。その症状は、強いストレスに暴露されたあと、長期間持続する不安・不眠・悪夢(過度の覚醒状態ともいえます)と、ストレス体験に関連する断片的な刺激による外傷の再体験、そのために少しでも関係する刺激から逃げようとする行動によって特徴づけられます。しかもそれがほぼ永続的に続くもので、患者さんの苦痛は大変なものがあります。 この概念の確立はベトナム戦争や湾岸戦争の帰還兵に見られたことが大きかったのですが、実際には性的虐待や交通事故などによってかなり一般的に観察されることがわかってきました。考えてみると、子どもの死などの喪失体験に際して私たちの身近でもこういう事例は多くあったわけで、今まではいわば当然のものとして本人も周りも病気と考えなかった面もあります。よくあることですが、概念ができると日常から分離してそれが見えてくるというわけです。 PTSDと海馬萎縮 1995年、ブレムナーらはベトナム退役軍人でPTSDを発症した患者のMRIを撮って海馬の萎縮があることを報告しました。同じような報告が他の施設からも報告され、また幼児期の性的虐待によってPTSDを発症した患者でも左側の海馬が平均12%小さくなっていることがわかりました。海馬は人間では側頭葉の深部にある組織で学習や記憶という重要な機能を担っていますが、心理的な原因で脳の構造に変化があるという報告は大きな反響を呼びました。ストレスはセリエ(1950)によって定義されたもので、いまやごく一般化した名称ですが、漠然としてつかみどころがなく、科学的な研究対象になりにくいものでしたが、PTSDはそこに風穴をあけたのです。 しかし、ストレスに何の科学的根拠も無いというわけではありません。それは今回の大きなテーマですからすでにおわかりと思いますが、ステロイドホルモンが大きな役割を果たしています。さらに、その受容体が海馬に多く、それによって海馬がストレス反応を調節していることがわかってきました。となればPTSDの原因は海馬にある、しかもPTSDは原因となる外傷体験はわかっていますし、その発症には時間がかかるのですから、それまでに海馬の萎縮を防いでやれば予防が可能じゃないかと予想されます。実は同じようなことが脳虚血のあとにも知られています。脳虚血後数日して海馬の一部が脱落する現象で遅発性神経細胞壊死(1982)と呼ばれています。これもある程度予測可能な事態ですから予防法はないかと世界中が血眼になって探しています。 ストレスモデル―私たちの研究 原因を探る、治療薬を探すためには動物モデルが必要です。これが実は問題で、なかなかこれはというモデルがないのですが、ケニヤでミドリザルにおこった偶発的事件が大きなヒントを与えてくれました。それは作物を荒らしたために捕獲したサルを遠方の施設に送ったのですが、その後一部のサルが死んでしまったのです。その原因を探ったサポルスキーらはさまざまな証拠から、死んだサルは重い社会的ストレスを受けた下位のサルであると結論づけました。そして剖検によってサルの海馬の神経細胞が部分的に脱落していることを見つけました。 私たちは、有機スズの一種をラットに投与すると数日して、サルに見られたのと同じような海馬の細胞脱落がおこる現象に注目して研究を続けています。というのはこの細胞死の前にちょうどストレス暴露の際におこるようなステロイドホルモンの反応が見られることを見つけたからです。またその反応に先立って、免疫に関わることが知られているサイトカインが動くらしいこともつかんでいます。そして免疫抑制剤が治療的に使えないかと模索しています。ちなみに、この有機スズは船底に塗って貝の付着を防ぐために大量に使用された環境ホルモンの親戚でもあります。そうなると性腺を含む内分泌腺や免疫の中枢である胸腺の関与だって考えられます。 このシンポジウムでは、以上のようなモデル動物の仕事とあわせて、臨床的なPTSDの患者さんでの研究にもふれてみたいと考えています。
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