東方出版 ¥1,500+税 2006年7月25日発行 ISBN4-86249-016-6
子どもたちに本物を体験させたい
栗原 紀夫(社)日本アイソトープ協会甲賀研究所長、京都大学名誉教授(農薬科学)
子どもをめぐる様々な問題が、これほど頻繁に報道されるようなことは、これまで、なかった。子ども自身が引き起こしたと思われる事件や、子どもが大人から受ける仕打ちによる事件など、「犯罪」のレベルの出来事があまりにも多い。多くの人がそう思っているに違いない。
このような問題、出来事を見ると、このところの子どもをめぐる状況が、どうなっているのだろう、様々な問題や出来事はそうした状況と関係があるに違いないと、漠然とではあるが、考える。
本書は、「子どもの心と自然」と題して、そのような疑問に答えていくための重要なアプローチをわかりやすく示そうとしている。一読して、これまでに知らなかった観点からの記述に考えさせられ、また著者の深い考えに基づいた詳しい解説に感銘を受けた。
第1章の1や2は、それぞれ、いまだにまざまざと記憶から呼び覚まされてくる1997年神戸での小学生連続殺人事件(酒鬼薔薇聖斗事件)と佐世保小六女児事件(2004年)を取り上げていて、非常に重い内容である。その時々の少年や少女の心の中の動きを深く読み込んでおり、とくに神戸の事件での加害者少年の行動には「創造性」「宗教性」「実存性」という観点からとらえるべき問題が含まれているとして、くわしく説明している。
さらにその基に「人間の心の中には意識と無意識」があるというが、そこでこれについてのフロイドとユングの考え方に違いがあること、ユングは無意識を「個人的無意識」と「普遍的(集合的)無意識」とがあるとしていることについてまず述べ、『それらいわば3層の間にはユングの考え方では、それぞれ壁があり、容易には無意識の内容が意識の層には出てこないこと、しかし「夢」と「神話」が意識の層に出てきてそれが論じる対象となったり、ある種のファンタジーといった作品を生み出したりするのだ』との解説もある。
著者の考えでは、上に出てきた意識、無意識の全三層のそれぞれの間を隔てる壁が、子どもたちの心の中で非常に薄くなっているのではないか、という。つまり、神戸の少年では、壁があまりに薄いので、意識の層の中に本来無意識の層の中に収まっているはずの宗教性、実存性、創造性がにじみだし入り込んで来て、幼い心の持ち主が、大人なら常識以前の、思いも寄らない、たとえば殺人といった途方もない行為に走ったのであろうと述べている。佐世保の事件を起こした少女の心の中でも、神戸での少年ほどは典型的にそれらのことが現れていないが、類似の部分があることを著者ははっきりと指摘している。
読んでいると、「理由あるいは根拠は、その薄い壁かも知れない。では、周辺に子どものいる大人は、子どもに大問題を起こさせないようにするには、実際どうすればいいのだろう?壁を厚くすることはできないのだろうか?」という疑問がわく。
ヒントが幾つか出されている。子どもをモノ扱いにしない。本物にふれる機会を増やす、等々。そこでは大人が真剣に子どもを叱らない、厳しく迫力をもって言い聞かせようとしない、という風潮も「本物を体験できない育て方」に通じるのであり、子どもはそれで迷惑をこうむっているのだ、とも言っている。しかし一方では、子どもは本当の優しさをほしがっているのだとも述べ、このところの多くの大人たちの反省を促すようなこの一節は、まことに重要なメッセージだと思われる。
本書の中の「千と千尋の神隠し」を例にとれば、「異界とのふれあい」、「働く喜び」、「子どもに苦労させないことがほんとにいいことか」、「水の循環の筋道でありまた現代の環境問題の象徴的な例としての川の汚濁と再生」など、様々な大切なテーマが盛り込まれたファンタジーの魅力が述べられている。一方では、オウム真理教が、おぞましいひどい活動であったことは言うまでもないにしても、現代の多くの宗教家に反省材料をわんさと提供していることにもふれている。
ここまでの論考に続いて、著者は、子供と自然とのかかわりの重要さについて記している。自然の厳しさにも気づくこと、自然の「悪」の側面に気づくことの大切さについても触れていて自然と文字通り触れあうことの重要性を述べるなど、耳を傾けるべき指摘が随所にある。また著者はとくに川に注目し、川を「知っていても」、川に「触れていない」子どもがほとんどであるような現在の状況を変えていこうという試みにも触れている。
京都の住宅周辺には自然と接する機会がまだまだ残っており子供たちもそれらに接する機会がある程度残っているとは思えるが、評者自身が子どもであった頃は、今の子どもたちより、はるかに自然の中にとけ込んだ毎日だったように思う。小さな流れに入り、小魚をすくい取ったり、ミミズを付けた針を数十センチ程度の釣り糸だけであやつってゴリとよんでいたカジカの一種を何匹もつり上げて得意になっていたことも思い出すし、夏になると、家のすぐ近くの草むらで夢中になってキリギリスを(それも鳴いている雄でないと気に入らなかったのはどういう訳かわからないが)、追いかけて何匹捕まえても満足せず、その鳴き声がすると、ワクワクしながらもそっと近づき捕まえようとするのが常であった。近くの低い山に出かけるときなど、山道からや、頂上に近いところからの眺めも楽しんだが、山道の途中のせせらぎをのぞき込んで、小さなカニを見つけて持ち帰り、しばらく小さな鉢で飼ったこともある。また、ほんとに小さな家の庭でありながら、水蜜桃の木があり、虫が寄ってきてそれを追い払う苦労があるとはいうものの数少ない収穫物の甘さおいしさに無上の喜びを感じたものである。戦時(いわゆる太平洋戦争)中は苦しいことが多かったが、少しでも日々の食料の足しにしようと耕せるところは玄関へのアプローチのすぐ横の地面でも、父の開墾で、畑にしたところへカボチャ、ナス、キュウリ、トマト、サツマイモ等々比較的素人でもつくりやすい野菜を、食べる楽しみもあって育てた。これも自然というものに触れる機会であったのだなと、今にして思う。言うまでもないが、自然に触れる機会が多かったからと言って、あの時代がよかったなどと言うつもりは全く無い。常に空腹をかかえて、主食といえば、庭でとれたカボチャであったり、配給で得たコウリャンで作った団子のようなものであったりという日々へ戻りたいなどと誰も思わない。戦争の悲惨さは、爆弾が近くに落ちたなどの経験が無くとも、必要なものが全く手に入らない苦しみや悲しさで、子どもながらに、決して消えない実感として深く心に刻まれているのである。
コメント1の小学校の校長先生の、子供たちを自然に触れさせる教育のことなど、現代では非常に望ましい素晴らしい催しだと感じる。自然がいくらかでも見られる京都周辺でも、様々な制約の故に自然に触れる機会が少ない子どもたちにとって、非常に大切な取り組みだと感心した。
この書をじっくり読み進めると、いろいろな角度から子どもの問題を取り上げてあって、再読したくなるところも随所に出てきて、つい時間経過を忘れるほどである。しかし、一方しっかり理解しつつ読み進めるには、相当なエネルギーを要すると感じる部分もある。子どもの心に、洞察に富んだ接近を試みている様子がきちんと書かれているから、それも当然である。
さて、本書をまず手に取ったとき、自然に最初のページを開く。そこには、エピソードに満ちた「序」がある。「序にかえて-私の現状と孫たちの会話から」は、著者の日常、とくにお孫さんとの交流を活写してほほえましい。あ、うちの孫どもとのやりとりと似ているな、などと思いながら、あっという間に楽しく読んでしまった。その後に続く重い課題についての論考のイントロダクションとして、示唆に富み、また対照的な部分である。
平成18年8月17日