このところ、私は本誌のサロン談義に、?.教育改革に対する私見、?.親孝行について、?.愛国心について、?.戦争についての4編を書かして頂いた。これを終えるにあたって、この4つを総括しておきたいと考え、それを「病中論文の総括」と名付ける事にした。既に述べたように、私は平成14年暮れから今に至るまで、生まれて初めての長期入院などを繰り返したが、それを良い機会として、柄にもない哲学書などを読むことが出来た。そして、その時の感想などを文章にしてきたが、それらを「病中論文の総括」と題すると、上記4編の外に京都大学人間・環境学研究科の「人環フォーラム」に掲載した論文である「大学紛争の総括」を加えねばならないことに気付いた。従って、その内容を簡単に述べ、その後、本誌掲載の4論文の総括を記載することをお許し願いたい。只今95歳の私がこれで死ぬとしても、また次の仕事、即ち日本の教育について、昭和59年から62年まで臨時教育審議会会長をしていた私として、かねて計画してきた「臨教審会長30年の回顧」に取りかかる事が出来ると考えるからである。
(1)大学紛争の総括
私は去る大学紛争時の京大総長であった(任期:1975年12月16日―1979年12月15日)。当時の京大総長として、あの紛争の哲学的背景を勉強すべきである、またしたいと希望を持っていた。紛争時、烈しい学生団交に際して、主として大学改革の具体策について学生の要求を聞いていたのであったが、紛争自体の哲学的背景については、ゆっくりそれを理解する機会を持てなかった。幸か不幸か今度の病気入院によって勉強する時間を持つことが出来たのである。勿論、解剖学専門の、然も90歳を出た老人のことであるので素人の哲学である。
あの紛争はひとり、京都大学の、又日本の大学の紛争ではなくて、世界の大学、特にドイツはその震源地であって、一般に「ドイツを変えた68年運動」と呼ばれる歴史的事件であった。1968年を中心として世界の文明国の全大学を揺るがした革命運動であった。その張本人はマルクーゼHerbert Marcuse(1898〜1979)というベルリン生まれのユダヤ系ドイツ人であった。彼の主張を簡単に述べると次のようである。私の知っている彼の代表的著書は次の3つ、「理性と革命」(1941年)、「エロス的文明」(1955年)、「一次元的人間」(1964年)である。
先ず、「理性と革命」は、彼の思想の成り立ちをヘーゲルHegel哲学の緻密な分析から始め、ヘーゲルやマルクスMarxを乗り超えようとするもので、ヘーゲル批判としても優れたものとされ、私の今回の哲学の勉強もこのヘーゲルから始めたのはこの本の影響であろうか。
次の「エロス的文明」はおおよそ近代文明は人間本能の抑圧装置であって、この文明のために人間の本能は抑えられ、結局は人類の滅亡を促進するという主張であった。文明国における少子化の事態を挙げている。従って、人間本能の解放を主張している。
最後の「一次元的人間」は彼の主張の中枢をなすもので、現代高度産業社会を痛烈に批判したものであり、その論旨は現代社会の本質をついて大変説得力のあるものである。その結論は、現代社会はウソの社会であるという。例を挙げれば、核戦争による破局、この人類を絶滅させるかもしれない破局の脅威は、この脅威を永絶させる勢力を保護するのに役だっている。この勢力が現代の産業社会に臨む破局の諸原因に対する防御を遅らせている。破局の諸原因は、人々の間では、つきとめられて暴かれてもいるが攻撃されることなく、先進産業はこの危険を永絶させることによって豊かになり、巨大化し、暮らし良くなるということである。この防御体制が多くの人々の生活を益々暮らしよくするし、人間の自然支配が助長され、東西の紛争は激しくなり、核戦争とは別の破局が始まる。現代の高度産業世界はウソ社会である。その様な社会を「一次的社会」と呼び、その様な社会に順応し暮らしている人間を「一次的人間」と呼んでいる。本能の解放は別として、現代社会がウソの社会であるという点には成る程と共感するのである。今次の大恐慌も根本の原因はそこにあると考えられる。
以下に本誌に連載した4編の拙稿について、その要約を示す。
(2)教育改革の私見(本誌21(1)80−84、2008年春号)
私は昭和59年から昭和62年まで、内閣の臨時教育審議会会長を勤めた。その時、次のように考えた。
日本の教育はこれまで第一は明治維新の改革、第二は第二次世界大戦(大東亜戦争)の敗戦後の2つである。この二つに共通な事は何れも外国から急いで、外国教育を取り入れたものであって、共に日本の教育を日本人が自分の考えから生み出したものではない。ここに明治維新の日本の近代化以来、百年の今日、日本は一度自分の頭で考え、自国の教育を生み出すことを試みるべき時ではないか。私はこの度の教育改革をそのような意味で、日本人が初めて自らの教育を生み出す機会としたいのである。今、教育を本格的に考えるのは、人間とは如何なるものであるかというところから出発しなければならない。
私はこの観点に立って、人間の本性の哲学的考察、その一生の在り方を考え、人間の本性に関しては、それが「大きい心を持った共生を本質とする生命体である」とし、又、その具体的生活に関してはこれを家庭、国家、そして世界(人類)の三つに分けることとした。この際、家庭と国家の間に社会を入れるのが普通であるが、私は、敢えて、人間の存在の本質から考えて、他とともに「共生」を重んじるところから、家庭の中に社会を含ませて、人間形成の基盤はここにあるものとした。昭和59年、私が臨教審会長になったとき、唯一人、私に対して教育の在り方について教えられたのは、ギリシャ哲学の大家田中美知太郎先生であった。田中先生はこれからの日本人の教育に不易なものは二つ、「親孝行と愛国心」であると言われた。以来、私はこの先生のお言葉が常に私の胸の中を去来したが、現代の教育の荒廃を救い、21世紀の教育をどうするかという臨教審の設置目的に対して、この古い言葉「親孝行と愛国心」を持ち出すことが出来なかった。しかし、この先生のご忠告は臨教審の答申に関係なく、常に私の胸の中に生き続けたのである。幸か不幸か私は前述の様に89歳の暮れ、平成14年に脚を痛め、長期入院を強いられた。病院または自宅の病床にあって、私はこの機会に田中先生のご忠告を根本的に考えてみようと決心した。それが「大学紛争の総括」から始まる5つの小論である。ここで私は教育に対する基本的考え方を哲学的にしようとして、田中先生のご専門のギリシャ哲学から上述の人間の在り方を、?教育改革に対する私見(家庭、国家、世界)、?親孝行について(家庭と社会)、?愛国心について(国家)、?戦争について(世界及び人類)とした。その理由はそれぞれ論文で詳しく述べた。
(3)親孝行について(本誌21(2)208−215、2008年夏号)
前項の本文のなかで(21(1)82頁:人間の共生)、私は「人間は大きな心を持った共生を本質とする生命体である」という事を述べた。この心は、先ず、親の子に対する愛情によって、初めて生まれた子供の親に対する愛が生まれるということである。この愛は人間が個的存在から、他との共生の第一歩であって、具体的には「ヒト」が人間になる第一歩である。この母親の子に対する愛は、子孫確保のための本能的な性格の顕れでもあって、近時、京大霊長類研究所の研究では、高等霊長類の一部にも存在することが証明されている。この親の愛によって、子供に起こる親に対する愛情(親を慕う心)は人間の心の出発であるが、これが独占欲と感謝、特に愛から感謝への移行には距離があり、人間特有のものであって、動物にはその存在は実証しにくい。しかし、この心の愛が感謝に移行するところを、人間の心を大きな心と呼び、動物の心と区別した所以である。この大きな心は子供の成長と共に発展し、これが人間文化を生むもとである。この感謝の気持ちを「親孝行」と言うならば、人間の大きな心の萌芽であって、人間が人間となる出発である。この際、個を取り巻く家族はいずれも、その子に対しては他となるものであって、家族、社会の中で人間の心が成長を続ける第一歩である。
かくて、私はギリシア哲学の中でも、親の子に対する愛、その愛に対する子供の感謝、すなわち「親孝行」を勧めている内容を引用(本誌21(2)212-213頁)すると共に、すべての宗教が親を尊ぶことを主張し、儒教に至っては、その中心的主張である「仁」は親孝行そのものであることに注目した。この関係を考えるならば、親子の関係というものが、新しく生まれた人間の心の初めを形成するものとして、「親孝行」を理解するならば、田中美知太郎先生の教えは正にそのことを教えたものであろう。また、その人間の心の初め、その発育の出発は家庭であること、また社会であることで、これは正に孟母三遷の教えそのものである。
(4)愛国心について(本誌21(4)462−474、2008年冬号)
人間の具体的存在としての国家は、人間にとって必要不可欠なものである。人間は何れかの国家に属するもので、その批判は勝手であるが、その国籍を変えることは極めて難しい。しかし、以上述べた如く、人間の具体的存在に対して、国家がこれほど大事なものであることを考えるならば、一国民として、国家を愛する愛国心にはその表現は色々あるが、これを今、その本職とすることに関して言うならば、いわゆる「職域奉公」である。これを田中先生のギリシア哲学に従えば、ソクラテスとプラトンは、その本職である哲学において、国家というものを一番大切なものとして扱っている。プラトン全集における国家篇は最大のページ数を占めているのみでなく、国家のリーダーは哲学者であるべきであるという、いわゆる「哲人王」の主張で、この2人の愛国心の発露である。同じ意味において、これを日本で見るならば、西田幾多郎がその自らの哲学、西田哲学において、国家は世界史的存在であり、日本という国家の外に沢山の国家があるという事を主張したのは西田の愛国心の発露である。ここで私は田中先生の愛国心を哲学者の自国に対する愛情として、ソクラテス、プラトンと共に西田の3人を挙げた。霞ヶ関の我が国のリーダーが侮られないよう祈る心である。
(5)戦争について(本誌22(1)85-98,2009年春号)
次は人間存在の最終段階である世界について述べるにあたって、戦争の話を持ってくる事は誠に淋しい事であるが、人間は特に、国民が自国の事を考えるときは常に戦争時である。それは1769年ゲーテの「今日、ここから世界史が始まる」という言葉、ヘーゲルのいわゆる「精神の現象学」、即ち人類の類的存在の議論は共に、フランス革命におけるドイツ敗北のときであり、西田幾多郎の哲学は大東亜戦争の準備から、開戦、そして敗北に至る期間の哲学である。いかんながら私が世界を語る際に戦争を持って来た理由はここにある。
以上、述べた事によって、私が世界を論じるときに戦争を持ってきたことは、理解してもらえると思う。しかも人間の本性を考えたときに、この大きな心と戦争は人間の特徴である。しかもこの両者は、密接な関係をもっており、自由な心は戦争を抑制せねばならない。戦争の抑制は人類存続の要諦である。その方法には、政策的なものと、哲学的なものがある。前者は国連の様な機関を創ることであり、後者は人間の心の産物である文化の力をもって、戦争を抑止する事である。1932年、国連は世紀の知性アインシュタインに「人間の最悪なものは何か」と、「その問いを誰にするか」と聞いたところ、アインシュタインは「最悪なものは戦争である」と、その問いを「心の研究者フロイトに聞きたい」と答えた。ここに2人の世紀の頭脳が精魂を傾けて、議論をした結果、政策的なものは効果はなく、唯一の道は、文化による戦争の抑制であるとの結論に達している。この結論の当否は人類の運命にかかっているが、私はこのフロイトの意見の全体を見て、必ずしも楽観していない。
以上、私は去る学生運動の内実である近代の虚偽性から始め、その変革のため、人間の在り方を家庭(親孝行)と国家(愛国心)に求めたが、最後の世界のあり方については、すなわち近代の文化、文明が戦争を終わらせる事については疑問に終わった。今や近代を終えて、新しい現代、未来に生きる我々の今後の努力は、この問題の解決に捧げなければならない。私はこの5つの論文の統括として、我々の目標を「近代の超克」としたいと思う。
(6)近代の超克−統括
思えば、私は昭和の子である。大正2年生まれであるが、大正15年12月25日、大正が昭和になった日、私は13才の少年であった。昭和64年1月8日、昭和が平成になったときは、私は76才の初老に至っていた。言い換えれば、私の自覚ある一生は昭和につきる。この昭和は明治維新の西欧による日本の近代化が始まり、その後、大正を経て昭和に連なるのである。それでは昭和の時代とはどんな時代であったか。
1.昭和の時代の日本及びその国際状況
国内的には3年前の大正12年(1923年)関東大震災を受けた後、昭和に入り世界的大恐慌に見舞われた。外交的にはかねて支那華北の権益を重視してきた陸軍が、華北を支配する親日派の張作霖を守るために三次に亘り、山東出兵を行い、中国国民革命軍と武力的衝突を起こす。その慌ただしい様子は、中学から三高へ入学した私にとっても緊迫感が身を包んでいて、それは柳条湖事件、満州事変、上海事変と続き、昭和7年(1932年)満州国建国宣言、それを認めるのをためらう政府に対して軍による反乱五・一五事件、昭和8年(1933年)国際連盟脱退。騒然たる国際関係の中、国内では天皇機関説(美濃部達吉)等、昭和11年(1936年)二・二六事件(2月26日、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが、1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした未曾有のクーデター未遂事件)、日独防共協定、そして廬溝橋事件を経て、昭和12年(1937年)日中戦争、日独伊協定、昭和13年(1938年)国家総動員法が発令、国内を挙げて戦争準備の体勢となる。三高の生徒であった私は本来社会思想の乏しい理科生であるにも関わらず、その時代のこれらの事件の名は今も耳にこびりついている。昭和14年(1939年)中国に味方するアメリカの日米和親条約廃棄、ついに昭和16年(1941年)12月8日真珠湾攻撃と太平洋戦争の幕は切っておろされた。
2.昭和時代の国民感情
明治維新の開国を迫られて開国した時の国民は尊皇攘夷と文明開化に分かれていた。その両派のヨーロッパへの応対は前者は天皇を中心としてヨーロッパを討伐せよといったもの、後者はヨーロッパの文化を早く日本に移入して、富国強兵を急ぎ、その後にその実力でもってヨーロッパを征服しようというもの、両者に共通した目的は、道は違うが終局の目的は同じ、日本がヨーロッパを征服して、日本が世界の中心になろうというものであった。
しかし、一般国民は、ペルーの浦賀来日以後の欧米の繰り返し執拗な日本開国への脅迫、嫌がらせにはつくづく忍耐の緒が切れる思いがあった。その現実は腹に据えかねるものがあり、詳細は吉見良三著『空ニモ書カン―保田与重郎の生涯』(1998年 淡交社)に詳しく述べられているが、驚くべきものであった。かくして日本は開国を余儀なくされ、明治・大正そして昭和となって、ヨーロッパの文明は怒涛のように日本に流れ込み、大正のモダンガール・モダンボーイの風潮を近代というものと考え、苦々しく思い、近代化イコール欧米化と考え、欧米憎し、近代化はダメという気持ちが人々の心の底にあった。この間、欧米は日本に対して何をしたかとの外交の詳細は一般国民の知るところではなかった。
これに対して私は驚くべき資料を持っている。これは私の恩師である舟岡省五先生の「東亜星座における日本」(Japan Im Sternbild Ostasiens)上下2冊、1162頁のドイツ文の大著である。当時先生は京大医学部解剖学教室の教授であった。先生は本来の解剖学においては、リンパ学(Lymphatology)と呼ぶ、血液に対して人体のリンパ系に関する新学問領域を提唱されたのみでなく、物理学、化学に詳しく、また、小説「仏教僧ー円空」と言う小説も書かれ、今ここに述べた東亜の近代史を独文で書いた人である。先生は日本の国際情勢に危機が迫っていることを感じられ、5年をかけて書き上げられたのが本書である。「私は剣の代わりにペンで戦う」と言って、世界の平和は東亜の平和から始まるとして、その東亜における中心国は日本でなくてはならぬとの信念のもと、「東亜星座における日本」(独文)を著した。校正を手伝った私として忘れ得ぬ大東亜戦争直前の思い出である。
今この本の詳細を述べることは出来ないが、その内容はアヘン戦争から満州事変まで、日本人にではなく、欧米人に読ますための独文である。これはドイツの潜水艦でヨーロッパに運ばれたと言われるが、その内容は、統一を欠いた支那・朝鮮に対して、日本が行使した大東亜共栄圏建設の為の行動を主としてイギリス、アメリカが執拗に批判し、反対した事実を詳細に記録したものである。その中の文章は、よくもこれまで史実を調べたものと敬服する程のものである。勿論、その中には、欧米諸国の日本の植民地政策そのものへの反対もあるが、その主な目的は、自らの帝国主義に基づくアジアの植民地獲得にあって、その烈しさは日本の忍耐の限度を越えるものがあったのである。この詳細な内容は、これを外国人には知らしておきたいという先生の悲願であった。この様な事実はいわゆる東京裁判でも見られるところである。当時の日本の応対は国連脱退となり、日本を国際的に孤立に導くものであった。しかし、これもまた一面ではやむにやまれぬものであった事も事実である。
3.近代の超克
以上述べたように日本では朝野を挙げて欧米に対する敵意は溢れ、このことは欧米化イコール近代化となって近代化を見直すべきであるという機運を醸成した。欧米憎し、「鬼畜欧米」の感情に赴くものである。それはやがて昭和16年の開戦に向かっての国民一般の気持ちとなった。遂に昭和16年12月8日、その日は来た。「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」。この報道を聞いた一般国民は胸のすく思いであったろうが、同時にまた、深く日本の現状と将来について考えてきた知識人の心は、前述の胸のすく思いと同時に、その後の日本の未来に対し思いを馳せ、複雑な感動を味わったに違いない。後にこれを「知性の戦慄」と呼んだものである。「文学界」は、正式の名称は「知的協力会」だが、翌昭和17年7月に、「近代の超克」という座談会を開催した。それは雑誌「文学界」9月と、10月号に掲載された。その参加者の構成は日本各界の論客13人からなり、その内訳は大きく分けて3つ、日本浪漫派、「文学界」同人、そして京都学派であった。このうち、日本浪漫派は最右翼であり、文学界同人は揺れ動き、最後の京都学派は戦前、戦中は左翼と呼ばれ、戦後は右翼と批判された。西田哲学のメンバーであったこれら参加者の共通の発言は、時節柄もあり、当時一般国民の近代化イコール欧米化をとりあげ、その排除をうたうものであった。しかし議論の中心は各専門の近代化における功罪を熱心に分析して見せるものであった。これら13人の参加者のうち6人は当日の発言とは別に予め論文を提出した。その多くは前述の討論の根拠を示したものであるが、このうち、特に私の注目を引いたのは京都学派の西谷啓治による「近代の超克 私見」であった。以下、その論旨の一部を述べると次の様である。
近世は文化的には宗教改革、自然科学及びルネッサンスという3つの運動によって、中世との決別を明らかにした。この3つ、第一の宗教改革、これは世界と人間に対して全く超越した神を中心とするので、世界と人間性への絶対的否定を根本とする。これに対して、自然科学は人間を他の生物と同列にとらえ(生物進化論)、否定も肯定もしない、無関心な立場である。残ったルネッサンスというのは「ヒューマニズム」とも言うことが出来、人間性の完全な肯定である。それは人間の心と魂に発する諸々の能力を開発し、人間の感性に向かって、教養を薦める事である。これは人間の文化や歴史、倫理の領域において支配的な立場に立つ。
以上の3者を簡単に言うと、神、世界、そして人間性の3つを中心とするものである。これらの立場は、それぞれその中心とするものが異なっているので、本来分裂した3本の柱であるが、これを中世において結びつけていたのは宗教キリスト教であった。従って、この中世のキリスト教による3つの柱の調和は、宗教によるものであった。ここにおいて、西谷はこの度も宗教によってその3者の調和を回復せんと企て、それを宗教の中、仏教思想の「主体的無」を主張した。これは西田哲学の中枢的理念である「絶対無」に相当するもので、「有」と「無」を超越した仏教の「無」又は「空」と言われるものである。これは、その後西谷の生涯の研究対象、宗教哲学の主張である。この「主体的無」を参加者が理解したかどうかは別として、これが戦争に対してさし当たり問題となった国民各個人の、所謂「職域奉公」が国家総力の道徳的エネルギーとなること(ランケ)、さらにはその宗教の世界性によって、戦後開かれるべき国家の世界史的存在の根拠を示すものとして、世界における日本の在り方、さらには皇室の在り方にも言及している。その詳細は同年昭和17年、西田幾多郎によって出版された「日本文化の問題」の重要な国際社会における日本の在り方の指針としたものである。
先に述べた「近代の超克」の座談会は昭和16年12月8日の戦争勃発の直後である。この時の「近代の超克」は日本社会に自然に生まれ、その後も繰り返し問われるテーゼである。この構成内容は日本的なものであるが、その時期は、我々がこれまで人類の歴史において見た「知性の戦慄」の時代である(ゲーテとヘーゲルとフランス革命)。西谷の「無」は、哲学と宗教を哲学の中に取り込んだ西田哲学の中心理念である。その論旨は西洋哲学と東洋哲学とを含むものであり、世界的である。日本の「近代の超克」論に世界観を述べたのは京都学派のみである。西田哲学は、戦中はその「世界」への言及をもって左翼と言われ、また戦後はその「世界」をもって戦争に同調したものとして批判された。即ち言論の自由の無い時代であった。この「近代の超克」は、その後、日本の流行の思想として、多くの機会に語られている。竹内 好の「近代の超克」、矢野 透の「近代の超克」等。この「近代」は一般に科学技術文明と同意義であり、私にとっては関心を持っている「近代科学技術文明と人類の未来」の日本版と言うべきものと思うのである。西洋では早くゲーテが近代を取りあげ、ルソー、ニーチェ、ヘーゲル、ハイデッガーと続いている世界的テーマである。即ちこれは私が西田哲学の日本の「近代の超克」から「近代科学技術文明と人類の未来」の世界的問題への展開を考える所以である。
4.昭和における日本人の体験
この昭和は日本人みにとって大きな二つの体験を与えている。その一つは、去る大東亜戦争の敗北であり、神州不滅と言って、敗戦を知らなかった日本にとっては初めての大きい体験である。その第二はその後の未曾有の経済発展による物質的豊かさの獲得と同時に精神の荒廃をもたらすに至ったことである。この二つの大きな負の体験は日本近代、昭和時の大きな体験である。この経験を含め平成の未来の原点に立った若者は今後何をなすべきであるか。戦争と物質的繁栄の空虚さを体験した者として、今後は専ら、心の強化を求めたい。これをして、哲学というならば、ここに新しい未来に生きる哲学の構築にある。我々は既に西洋哲学を学んだ者であるが、ここにおいて東洋哲学の確立と、その両者を止揚したところに新しく生きること。これが西田哲学の近代文明に対する主張である。近時、霞ヶ関の政治家の姿はどうか。今後如何に日本が世界から尊敬を受ける道を歩むかは、今、緊急な日本の問題である。
5.西田哲学の評価
「近代の超克」において、日本浪漫派の保田与重郎と文学界の同人の小林秀雄は共に保守派である。従って、京都学派の世界史的立場から近代を論じ、日本の将来についての世界的立場を強調する傾向については、何れかと言うと、むしろ批判的であった。しかし、その保田も小林も共に西田幾多郎の難解な哲学を西洋の言葉で述べ、東洋の宗教、哲学を論ずるところでは、二人ともに西田を尊敬していると言えよう。
次に日本における西田哲学の位置づけは、一般人の近代イコール欧米論とは異なる。欧米に対する一般的評価の観点で西田哲学はむしろ左翼的として排除される傾向にあった。それが戦後になると、日本の戦争の推進者として、右翼とされて、その研究は戦後一般知識人からは避けられた。即ち西田哲学は戦中、戦後あるいは左、あるいは右として常に言論の不自由の中で、根強く推進されてきたものである。
それでは言論については、当時と比して、自由である今では如何であろうか。最近の調査では日本の哲学界では、カント哲学会、ヘーゲル哲学会の二つがある上に、2004年には西田哲学会が創られ、現在ヘーゲル哲学会と同等、約250名の会員を有し、大橋良介君はその会長であるという。2008年、哲学雑誌「理想」681号に西田哲学特集が出た。一般に、西田哲学に何らかの言及をすることは、現在日本の哲学者のひとつの義務とすらなっていると言う。そして、ドイツ観念論や、現象学の側面からのアプローチは定着しているという(大橋談)。次に外国では如何。1990年、ドイツで大橋君が編集し、Alben社から発行した「Die Philsophie der Kyoto-Schule」(京都学派の哲学、写真1)では、西田哲学に関する欧文論文が116編であった。それが今回、その第二版を出すに当たってはそれが199編に上がっていた。つまり、20年間に、欧文の研究論文が1.8倍に上がった。この数は今後も続くと思う。
6.私の西田哲学に惹かれる理由
既に述べているように、私は本来一介の解剖学者であって、しかも只今95歳の老人である。この者の哲学研究と言えば笑いものになるであろうが、私は只今、6年余の病床にあって、生き甲斐を感じているのは、命のある限り、西田哲学を勉強しようという意欲のみである。私が只今、西田哲学に強く心惹かれるのは西田哲学の次の点である。
先ず、日本の哲学で世界に注目された唯一の哲学であること、次に西田幾多郎が文明の研究は今後、西洋哲学のみでなく、東洋哲学とその両者の弁証法的研究に待たなくてはならぬと主張していることである。このことは私が京都の南の京阪奈文化学術都市の中枢的存在として創った国際高等研究所(IIAS)の開所式にドイツから招待したワイゼッガー博士Carl Friedrich von Weizs?ckerも西谷啓治の名を挙げて、この問題は東洋哲学、日本の哲学の協力を得ねばならぬと言った通りである。彼は初代ドイツ大統領ワイゼッカーRichard Carl von Weizs?ckerの長兄であり、ゲーテ亡き後のドイツの生ける知者と言われていた。西田哲学が哲学の中に仏教、特に禅の心として、東洋仏教の粋を取り入れ、哲学と宗教との移行を試みているところに、西田の禅、その弟子西谷啓治、また大橋良介の禅の修業には尊敬を禁じ得ない。また、私は医学徒に属する者であるが、近時の医者が患者を診ない事を嘆いている。心を持った人間に相対する事に関して、西田哲学を理論的に精神医学に取り入れている木村 敏を尊敬している。
哲学は人間の苦しみの果てというが、人間西田幾多郎の実生活は不憫である。無の思想、場の思想については充分解ったと言えないが、その中に実感を持てる予感がする。「近代の超克」の問題は、広く人類の問題とするとき、「近代科学技術文明と人類の未来」に連なることを信じるから、これは西洋の学問にも通じる日本人の重要な世界への貢献だと思う。それが私の現在の問題意識の最たるもので、それは今後の西田哲学の進展によると信じるのである。
7.西田哲学の教育論
私はもし命が許されるなら、これから西田哲学の教育論を中心として、日本の教育を考えてみたいと思っている。2000年の伝統を持った日本国の国民としては長所と共に欠点を持っている。尚、人間の教育は心に対する教育であり、また宗教である。「人間は大きな心を持った共生を本旨とする生命体である」。人間は大きな心(文化への生長)を持った共生(他と共に、戦争をしない)を本旨とした生命体(人間の創ったものでない。大いなるものへの信仰→宗教)と考えたい。生命は38億年前の誕生であるが、500万年前に心を持った人間は尚若い。大きい体験を積んで前進すべきである。フォイエルバッハLudwig Andreas Feuerbach(1804〜1872)の「人類の不滅の青春」(die unver?ngliche Jugend der Menschheit)とは何か。心を持った人間の事か。勇気を出して前進しよう。以上の総括が昭和の子、平成の「後期高齢者」(95.5歳)の平成の若者への遺言である。