サロン談義4(4) 「環境と健康」 Vol.22 No.1 2009
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戦争について-アインシュタインとフロイトの悲しみ
岡本道雄*
*(財)日独文化研究所理事長・所長、元京都大学総長(解剖学)
アインシュタインとフロイトの悲しみ
1792年、ゲーテはフランス革命軍との戦いに参戦し、ヴァルミーの砲撃戦でプロシア軍が負けた12 月16 日の夜、雨の降る中、皆が打ちひしがれている中で、「諸君、今ここから新しい世界史が始まるのだ」と叫んだ話は有名である。戦争の最中、新しい世界史が始まるとはどういうことであろうか。この後、ゲーテは世界文学(Weltliteratur)というものを提唱し、全人類の平和を目標とした。このゲーテの世界文学は、西谷啓治の解説によると、世界文化(Weltkultur)を意味するという。 1806年、イエーナのヘーゲルは、進撃した馬上のナポレオンの姿を眺めて、「馬上に世界精神を見た」と言った。その時彼は、一生の主著『精神現象学』の原稿を出版社に出しに行くところであった。精神現象学の本旨は、「人類は類的存在であって、人間は孤独でなく他と共存するもの」とする彼の哲学の中軸をなすものである。そのヘーゲルはフランス革命を大歓迎している。私がこの二人の戦争に関する話をここであげたのは、共に人類の巨匠、頭脳とも言えるゲーテとヘーゲルの二者が、人類が最も憎むべきもの「戦争」に際して、一見楽観的な見解を持つと共に、期せずして共に人類の未来のあるべき姿を提示しているからである。 私は、彼らの示した人類のあるべき姿として、「人類は共生を本性とする大きな心を持った生命体である」と定義した。しかし現実はどうか。世界はアメリカの9.11 の同時多発テロ以後も世界の何処かで戦争とテロが続き、各国社会の内実は、自由と民主主義を主張しつつ、実際は不道徳な流れにおし流されている。これは何と言うことであろうか。ここで私は、近代の巨人、アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein 1879?1955)とジグムント・フロイト(Sigmund Freud 1856−1939)の二人が戦争をいかに考え、いかに憂慮していたかを述べてみようと思う。 1932年、国際連盟は、近代の知性であるアインシュタインに、「貴方が今、人類の最も忌むべきものと考えるのは、何であるか。そして、それについての意見を誰に聞きたいと思うか」という質問を出した。これに対して、アインシュタインは、「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」と、またこれを心理学者のフロイトに聞きたいと答えた。この二人の近代の巨人の手紙の内容は、ともにその知性の限りを尽くし、戦争を避ける道を語り尽している。今、現在の世界の大波乱を前にして、この対話を知ることは、今日の我々にとって極めて有益であると信じる。然るにその翌年1933 年、ナチスの政権の確立とともに、ユダヤ人の書に対する焚書が行われ、この二人の手紙は多くの書物と共に焼き捨てられ、世界から姿を消していた。それがここ十年ほど前、世に現われ、日本でも「ヒトはなぜ戦争をするのか?アインシュタインとフロイトの往復書簡」
(花風社 2000年)として出版された。 私は今回、偶然これを手に入れることが出来たので、これをできるだけ詳しく正確に伝えたい。しかし、人類と戦争の問題は具体的にも、また哲学的にも容易でないことが分かり、全体を読み終わった後には言い知れぬ憂慮の念が残った。これが私がこの副題を「アインシュタインとフロイトの悲しみ」と名づけた所以である。早速本論に入ろう。 このアインシュタインの国際連盟への返事には、既に2 つの重要な彼の見識が含まれている。それは、?今の文明で人間にとって最も重大な悪を、彼が「戦争」と断定していること。?それについて意見を聞く相手に、心の専門家であるフロイトを指定したこと。ここにすでにアインシュタインが「戦争」と「心」というものに密接な関係を見出していたことを見ることが出来る。 普通、戦争と言えば、政治や国際関係の問題と考えるが、アインシュタインは、その問いをずばり、心理学者フロイトに聞いている。戦争というものの本質を人間の宿命というか、最大の汚点と考えているアインシュタインは、それがまた人間の本質的なものである人間の心と密接不離なものと考えたのである。
アインシュタインからフロイトへの手紙
ここに、近代の知の巨人である二人の人間の、人類の難題に対しての対話が始まるのである。アインシュタインは、フロイトへの手紙の中で、自らを一般の知識人として、この戦争と心の問題について、自分の知るだけの知識を明らかにした。その内容は以下のようである。
1. 戦争の問題に対して、まず第一に技術が挙げられる。技術の大きな進歩こそ、戦争の問題として、文明人の運命を決定するものと考えている。(アインシュタインは、日本の広島、長崎の原爆に対し、強い科学者としての、また人間としての罪過を感じ、日本の湯川氏、朝永氏等とバグウォッシュ会議という世界平和会議を創設している。)
2. この戦争の問題は、今日まで戦争の専門家といえども、解決ができず助けを求めている。学問に精通した人、人間の生活に通じた人から意見を聞きたい。その点、私は単なる物理学者であって、人間の感情や人間の心の深みを語るには適していない。
3. 従って、この問題は、人間の心に関する深い知識をお持ちのフロイト氏にお願いしたい。心理学に通じない人でも、人間の心の中にこそ、戦争の問題の解決を阻む障害があることは感じうる。しかし、その障害がどのように絡み合い、又どのような方向に働いているか、フロイトならその障害を除く方法を教えられるのではないか。アインシュタインは率直にフロイトに期待を持っている。
4. ナショナリズムに縁のない私のような人間から見れば、戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいと思える。それは、すべての国家が一致協力して、一つの機関(国連のようなもの)を創りあげればいいのである。この機関に立法、司法の権限を与え、国際的紛争が起れば、その解決はこの機関に委ねればよい。
5. この考えは簡単に実行できるように見えるが、まず、最初の壁に裁判というものがある。この裁判は人間がするのであって、周囲の色々な圧力を受け左右される。
6. また、裁判が決まってそれを法によって処分しようとしても、それを実際に押し通す力がなければ何の役にも立たない。人間は法以外のものから大きな影響を受けることが考えられるからである。
7. 法や権利というものは、権力と密接な関係にある。法を通す力は一般に権力と呼ばれるが、上記のような司法機関が出来ても、それがこの権力を手に入れなければ何の役にも立たない。司法機関には権力が必要である。
8. その権力を得るために、司法機関は設立に際して、社会や共同体の名前をかり、そ の名において判決を下し、その主張を正義と主張する。従って大事なのは共同体の権力である。
9. 以上、このような機関を創ることは、言うは易いが実行はむずかしいことがわかる。その障害を考えると、結局は人間の心に問題があるのではないか。この機関が力を持つ為には、各国は主権の一部を完全に放棄し、自らその活動を一定の枠に制限しなければならない。それは困難なことであって、実現していない。また実現しそうにない。
10. 以上の困難は、結局人間の心に問題があるのではないか。人間の心には、次のような悪いものが含まれている。?その第一は人間の権力欲と金銭欲である。戦争が始まると武器を売り、大きな利益を収めようとする。人間の心には、戦争はそんな絶好の機会である。戦争をチャンスと考える心もある。?ナチスのことを考えた時、なぜ少数の人間が多くの国民を動かし、自分の要求の道具にすることができるのか。
(ナチスを前にしたアインシュタインにとっては、このことは緊急の問題であった。)少数の権力者が学校やマスコミ、宗教的な組織すら手に入れ、多数の国民の心を思うままに操るのだ。?しかし、何故多くの国民は、学校やマスコミの手で煽り立てられるのか。安易に戦いに向うのか。答えは一つである。「人間には本能的な欲求が潜んでおり、それは憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする意欲がある。」?この破壊への衝動は、通常時には心の奥深く眠っている。特別な事件が起きた時だけ、表に顔を現す。?この衝動の問題が重要である。人間の衝動に精通している専門家の手を借り、問題を解決せねばならない。?ここで一つ問題なのは、このような人間の心を特定の方向に導き、憎悪と破壊の方向に導くのは、いわゆる教養の無い人たちよりも、むしろ、いわゆる知識人のほうが暗示にかかりやすいことである。このことはよく注意しておかなくてはならない。?もう一言、これまで話したのは、主として国家と国家の戦争である。人間社会には内戦という形の戦争もある。いわゆる宗教的紛争である。しかし私はこのような多くの内戦を取り扱うよりは、国家間の争いを取り扱うのが一番の近道であると思う。従って、国家同士の戦争をいかにして防ぐかということを、貴方(フロイト)にまずお尋ねしたいと思う。
フロイトからアインシュタインへの返事
1. まずフロイトはアインシュタインが人間の最も重大で忌むべき問題として戦争を取り上げたことに驚いている。フロイトは実はアインシュタインが、今日の知のフロンティアにあるような問題を選ぶのではないかと思っていた。アインシュタインは物理学者、自身は心理学者として別々の立場から考えを述べれば良いのではないか。そして結局は同じところに到達するのではないかと考えていた。ところが、フロイトの意に反して、アインシュタインは、「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるか」と聞いたので、大変驚いた。
2. また、当初は、戦争は実務的な問題であって、政治家のやるべきことではないかと考えた。しかし、アインシュタインが、自身が学者として言っているのではない、広く人類というものを愛するが故に言っており、これを実務として排除すべきではないと気づいた。もし実務的問題であるというのなら、フロイトは心理学的立場からのみ意見すれば良い。
3 .しかし、アインシュタインはすでに自分の専門の物理学を離れて、手紙の中では、まず最初に「権利と権力の問題」をとりだした。それで、フロイトは、やはり「権利」から始めるとした。アインシュタインは「権力」は「権利」と関係があると考えているようだが、フロイトはもっと簡単に「権力」は「暴力」と考える。しかし暴力と、アインシュタインの言う権利は極めて密接な関係にある。権利(法)と暴力、今の人なら、この二つは反対のもの、対立するものと思うであろう。しかし、権力と暴力は密接に結びついている。権力からはすぐ暴力が出てきて、暴力から権力が出てくる。
4. さらに原始の時代から、この両者がどうして結び合ってきたのかを述べてみる。?人と人との利害の対立は、まず最初は暴力から始まる。殴り合いである。動物の場合はこれで決着がつく。しかし人間の対立には、抽象的な対立もある。従って簡単に腕力だけでは解決がつかない場合がある。従って、程なく文字通り、腕力や筋力だけではなくなる。?その時には武器を使う。武器は優れた脳から生まれる。脳や才知は人間の腕力を押しのける。頭脳を使っても、戦争で目指されていたことは変わらない。相手を傷つけ、力を麻痺させ何も要求出来ない状態に貶めようとすることである。?腕力を使い武器を使っても、相手を生かしておけば、また立ち向かってくる。敵を徹底的に倒すにはどうすればいいか。それは敵を殺せばよいのである。これは殺人である。?ここで殺害が始まる。殺すと再び敵は現れないと同時に他への見せしめにもなる。自分の本能的な衝動も満足される。?しかし、殺人よりも、敵に恐怖心を植えつけた後で、敵を生かしながら奴隷として使う方法もある。そのために敵を生かすということもある。?この際、支配者となる者は、初めは力の強いものである。しかし社会が進むにつれて、剥き出しの暴力が法(権利)による支配になる。法が力を持つためには、多くの弱い人間が団結し、強力な力と対決しなければならない。団結は力なり。団結の力で暴力を打ち負かすのである。この団結した人間の力が権利として現れ、人間の暴力と対決する。?この「法」によって支配するのは、アインシュタインの言う「権利」と同じになる。上述のように法による支配は一人ではだめである。団結が必要である。多数の人の協力が必要であり、そのためには人間の心の問題となる。ここに初めて、明らかに戦争と人間の心との結びつきが登場してくる。多数の人間の意見の一致、協力、またそれの持続がなければならない。これを言い換えると団結心とも言えるが、このような組織集団は、単独では破壊されることになるので、初めから「法」を持った組織を多数創り、社会全体を壊さないようにする。この社会全体の法を規則または法律と言う。従って、この法律によって暴力を使えるのは、組織の集合機関のみである。?上述したところは、共通の利益に支えられたこのような共同体を創ることである。この際、人間の団結心が大切である。その団結心が持続できるなら、それは一つの平和を保つ方法である。一体感が必要である。それは人間の心の問題である。団結心とその特徴は、心の問題である。以上が原始の暴力から共同体を創るまでの人間の歩みである。しかし、上述の共同体への道も、言うは易く実際は色々な困難が考えられる。その歩みの詳細に入る。
(1) 共同体の構成はバラバラ。共同体の構成員は均一でなく、それぞれ暴力を用いる自由を持つ。少なくとも個人はバラバラである。このために法律がいる。しかし、法律があっても、個人と社会の掟の間にバランスのとれた状態を実現することはむずかしい。雑多な人々の間でバランスは壊れる。
(2) また一般に、この法律は支配者によって作り出される。従ってこの法律は、ややもすれば支配者に都合の良いものになる。支配者は一般に支配される者のことを考えない。すると、支配者の中には、なお残された制限を突き破り、法の支配から暴力の支配へ歴史を押し戻そうとする。もう一つは、その支配者に抑圧された人たちは、自分達の力を増大させ、今までの支配者による不平等な法を万人に平等なものに変革しようとする。この傾向が強く顕れるのは、歴史の変革期である。この時には法による支配が一時的に消え去って、暴力がすべてを決する状態に逆戻りする。
3) 以上のように、法律によって支配される社会が一度出来上がっても、これまで述べたような利害の対立が起れば、また暴力が出てくる。そうすると人間の歴史は、数限りない争いや対立の連続になる。ここに一つの社会と別の社会の対立、一つの社会と複数の社会の対立、大きな単位の集団と小さな単位の集団の対立、都市、地方、部族、民族、国家の対立。これらの対立はすべて戦争という力比べによって解決することになる。この際、戦争はどんな対立でも勝敗を決める。勝ち負けがある。かくて戦争へと向うのである。
(4) 以上、戦争の起る実際、今日までの歴史を考えてみた。この際、戦争は悪いものとして取り扱ったが、戦争にも役に立つ面があるとされる。例として、「ローマの平和」は戦争によって、地中海の国々に平和をもたらした。またフランス革命は、フランス国王の征服欲に対する戦争であったが、フランスに平和的統一をもたらした。かかる戦争の歴史をみると戦争を一概に悪いものと決めつけてはいけないのではないかという(危険な)考えも浮かんでくる。
(5) しかし、戦争で勝ち取った平和は長続きしない。このことはその後の多くの歴史的事実が示すとおりである。
(6) また、実際の戦争で大きな社会単位を生み出し、偉大な中央集権権力を創り上げることで、二度と戦争を起さないようにできることも考えられる。しかし、現実には上に述べたように、戦争は永遠の平和を実現しない。征服によって勝ち得た状態は長続きしない。暴力で様々な部分の単位を強引に一つに纏めても、それをいつまでも繋ぎ止めておくことは出来ない。新しく作られたより大きい組織でまたくずされてしまう。どんな大きな征服でも、また大きな単位同士が争うことになる。世界全体を統一するものではない。
(7) 戦争は次第に大きくなる。回数は少なくとも大戦争になる。それは悲惨なものである。
(8) この時点でどう考えればよいのか。フロイトは悩みつつ、なおも戦争防止の方法を考え続ける。その時彼の心の中に、この質問を提出したアインシュタインの国際連盟のことが浮かぶ。これは現在の「国際連合(国連)」にも当てはまる。 戦争を確実に防ごうと思えば、皆が一致協力した強大な中央集権が権力を持って、何か利害の対立が起れば、それに裁定を委ねる。その為には、?現にそのような機関が創造されなくてはならぬ。?それが自身の裁定を押し進める力を持つことが必要。国連をこのようなものにしようとしていた。では、国連は?、?を持っているか。?は怪しい。独自の権力、自分の意思を通す力を持っているか?「否」である。国連はその力を持っていない。個々の国々が自分たちの持つ権利や権力を国連に預けたときのみ国連のその力がでるが、目下のところ、そのようなことは見られない。 そんな国連は駄目であるか。しかし、この実験は大きい。人類の歴史上、稀なものである。人類初の実験である。通常は権力で入手する力を一つの高い理想に訴えて得ようとするのだ。尊重すべきではないか。従ってフロイトは国連の発想は尊重する。希望を持っている事が伺われるが、現在の国連にその力の無いことは、第二次世界大戦、その後の世界、今日の実情を含め実証済みである。領土不拡大原則を掲げた、1941年の大西洋憲章はアメリカ合衆国とイギリスから発し、多くの国際機関によって承認を得たにも関わらず、トルーマン宣言によって米ソが緊迫した状態になって以後その精神は忘れられ、朝鮮戦争、スエズ戦争などが勃発した。国際機関がいかに無力であるかを実証したものである。
(9) 次に、再び一般的に社会を一つに纏める道を考える。一人の暴力に対抗する為にグループを創る。その際、メンバー内の感情の結びつきが大事である。その際はメンバーの一体感、連帯意識が重要である。心の問題となる。このことは先にも述べたが、しかし、この際のメンバーの一体感、連帯意識というものは、極めて重要なものである。この連帯感、一体感のみで支えあった社会の実例がある。それは「汎ギリシア」の実例である。 ギリシア人は、自分達は優れた民族である事を自認し、他国民は野蛮人と思っている。またそのような誇りと自信を守るために自分達の仲間同士で、隣保同盟や信託、祝祭劇などをやって団結を固めている。これでギリシア人同士の争いは防ぐ。これで殆んどのことが出来て、ギリシアの繁栄をもたらしたのであったが、しかしこれでも絶対に安全とは行かない。ギリシア人の一部が、敵であるペルシャと組んで、自分達の存在を高める事を計画した事がある。 同様にルネッサンスにおけるキリスト教の信者の一体感は強かったはずである。しかし、そのキリスト教も後になると、多くのキリスト圏に別れ、相争うことになる。従って、人間の連帯感のみに頼っている訳には行かない。従って、フロイトが最後に頼りとした国連もまた汎ギリシア、キリスト教とともに、人間の連帯感のみに頼っているわけにはいかない。これはギリシア、キリスト教、国連のみでなく、日本の国体と日本人のその不滅の精神には、このカテゴリーの存在する事も考えねばならない。
(10)フロイトは、さらに連帯感の一つとして、ナショナリズムを挙げている。国民を一致団結させるためナショナリズムというものがある。しかし、これは、自国を大切にすると同時に、すべての他国を敵とみなす。共産主義が行きわたると戦争は消えると言う人もある。しかし、実際“ ボルシェヴィキ” が世界の果てまで広がるとは思えない。彼らも武装を重んじている。結局、理念の力のみでは団結は続かない。
ここまでフロイトは戦争を無くす方法について、未練がましく追求してみせ、その何れもこれで良いというものが見当たらない事を示している。これをフロイトの悩みと呼んでいいと思うのである。ここでフロイトは自分の考えから離れてアインシュタインの最後の質問にあたってみることにする。そのアインシュタインの質問は次のようである。 「人間はその本性の中に残酷を好むものを持っているのではないか」という質問である。フロイトはアインシュタインのこの質問に賛成して、ここから精神分析の話に入るのである。すなわち、これまで長々と述べた未練話は止めて、アインシュタインの質問の答えに帰へるのである。人間は何故いとも簡単に戦争に駆り立てられるのか。人間の心自体に問題があるのではないのか。この質問に対してフロイトは精神分析の話に入る。 フロイトの精神分析は次のようである。人間の衝動には2 種類ある。?エロス的衝動:性的衝動とも呼び、人間を生かす力である。「生への衝動」とも言われる。これに対して、?破壊しようとする衝動がある。「死への衝動」とも言う。この二つを簡単に善と悪には分けられない。両者は相互に絡み合って働いている。両者相補って働く。例えば、何かを得ようと考えると、まずその欲求はエロス的。それを自己のものとするには闘争が必要、「死への衝動」がいる。この様に両者は結びついて働く。この点はゲッチンゲン大学 物理学者Georg Christoph Lichtenberg の立派な業績であると言われる。 従って、人間が戦争に駆り立てられるには、戦争に賛同している動機、衝動がある筈である。これが働くと破壊になる。この破壊衝動の前面にエロス衝動を置くことによってエロス衝動は死の衝動の旗印のようなものになる。死への衝動がエロス衝動を後押ししている。この際、エロス衝動は死の衝動の名目となる。エロス的衝動が「生への衝動」というのなら、破壊への衝動は「死への衝動」である。「死への衝動」が外に向けて働けば、破壊への衝動となる。この破壊への衝動の一部は、生命体へ内面化される。この破壊衝動の内面化から多くの生物の生理と病理を説明できる。極端な時は、人間の良心すらこの攻撃性の内面化と言える。 破壊衝動(死への衝動)はどの生物にもある。生物は死の衝動によって己を分解して死に至る。この破壊衝動は外へ働くと破壊となる。この破壊衝動の内面化は生物にとって重要である。この内面化によって、生物の多くの生理と病理が説明されている。破壊衝動の外面化は攻撃。外へ発散すれば内面化少なく、よいではないかという無責任な考えもある。 以上の結論としてフロイトは結局、「人間から攻撃的な性質を取り除くことはできそうにない」と言い切っている。なおこれに対する反論として?地球は広いので、人間の欲する通りの場所があり、そこではお互いに争うことはない。また共産主義は人間を平等に、争いがなくなると言ってきたが、実際はそうもいかない。従って共産主義も駄目である。現に、実際ボルシェヴィズムも武装に専念しているし、また反対するものに憎悪の念を募らして、平和とは遠いことが認められる。 では、破壊衝動はあきらめるとしても、それでは戦争を避ける方法はないのか。それには、?エロス衝動を呼び起すことが第一で、これが出来ればよい。それと同時に人間の心、人間の感情の絆を強くする事である。それには、?愛の気持ちを大切にする。実際宗教でも、「汝の隣人を己の如く愛せよ」と言っている。愛によってお互いの一体感を持つことが大切である。 また、世の中には指導者と指導される者とがある。従って優れた指導者を育成する事が大切である。その指導者は政治家や教会で出来るものではない。以上のように、戦争を避ける道は色々考えても、それは「ゆっくり回る製粉機」のようなもので、それらが実現する前に人間は滅びてしまうであろうと言われている。 この様にフロイトは、アインシュタインの示唆に従って、人間の戦争を無くする道を精魂込めて述べたが、そのどれもこれも実現は難しかった。手紙の全面からはややもすれば悲観の雰囲気が感ぜられる。しかし、改めて戦争を広い見地から眺め、次のような戦争の実態を強く意識し、自らとアインシュタインに希望を持たせるため、最後の救いとして彼の文化論を述べるのである。彼の広い意味の戦争とは、?どの人間も自身の命を守る権利を持っている。?戦争は人間の希望に満ちた人生を打ち砕く。?戦争は人間の尊厳を失わせる。?戦争は望んでもいない人の手を血で汚す。?戦争は人間が苦労して築き上げたものを台無しにする。戦争は悪いものを持っている。それだけではない。現代の戦争は勝っても英雄や戦勝国を生む訳ではなく、人類の滅亡を意味する事と考え、フロイトは最後に彼の文化論を述べている。
フロイトの文化論
人間は動物と比べて大きく広い心を持っている。その心を用いて生活をしていく内に習性とも言えるものが生まれる。これを広く人間の文化と呼ぶことが出来る。人間の内にある優れたものは、文化の発展の結果であるが、文化の中には優れたものばかりがあるのではない。「文化が発達するとどうなるか」ということについては本当はわからないのである。しかし、いくつかの思いつきを述べてみる。その一つは、文化が発達すると、人類が消滅する危険性もあるということ。何故なら、文化の発展によって、人間の性的な機能が衰えていくからである。今日既に、文化の洗礼を受けていない人種の方が急激に人口を増やしている。しかし、文化を発展させた人々は子供を生まなくなってきている。文化の発展がある種の動物の家畜化に喩えられるわけである。文化が発展すれば、肉体レベルの変化が起きるが、多くの人は気がついていない。肉体だけでなく、文化は人間の心にも変化を及ぼす。どのような心の変化であるか。それは、ストレートに本能に従うことを拒否し、本能的な欲望が弱まってくるのである。私達の若い時と現代の青年を比較してみてほしい。要するに、心の変化は道徳や美意識に関係してくる。その特徴は二つある。 一つは、知性を強めること。もう一つは知性が衝動をコントロールし、既に述べた攻撃衝動を内に向けることである。こうした文化の発展による心の変化、これほど戦争に対立するものは無い。だからこそ、私達は戦争がいやなのである。私達が戦争がいやなのは、知性レベル、感情レベルだけでなく、体と心の奥底から湧き上がってくるものであるはずだ。戦争の拒絶、これは平和主義の体と心の奥底から湧き上がってくるものである。では、すべての人間が平和主義者になるには、どのくらいかかるのであるか。これに答えることはできないが、文化の発展によって生み出された心の在り方と、将来の戦争がもたらす、とてつもない惨禍への不安。この二つが将来戦争を無くす方向に人間を導くであろう。これはユートピア的な希望ではないと思う。しかし、それがどのような道を経て、あるいはどのような回り道を経て、戦争が消えていくのか、推測することはできない。しかし、次のように言うことは許されると思う。 「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」 (Alles, was die Kulturentwicklung f?rdert, arbeitet auch gegen den Krieg.) さて、私はここにフロイトの手紙の本意をできるだけそのまま延々と述べてきた。その理由はフロイトがこの問題を真剣に悩み、この内容をもって現存する戦争防止の手段を、その発生から現代に至るまで、実に余すところなく、詳細に記したその本意を伝えるためである。 私はこの書のその重要性を痛感し、敢えてその全文を紹介することにしたのである。私の時代の脳の大学講義では、同種を殺しあうのは人間のみであって、同種の動物同士は殺さないと平澤興教授から教わり、そんなものかと軽く受け止めていたのであったが、近時入院中、哲学に注ぐ時間を得て勉強する中で、戦争を人間の諸悪の中心であると信じるに至った。この偉大な二人が交わした手紙は、私の魂を揺さぶり、ここに全文を解説した訳である。アインシュタインの手紙にしても、フロイトのそれも、その内容は急な思いつきではなく、実際に体験したものである。特にその事を実感できるのは、フロイトの国連についての詳細である。戦争に対する国際機関の設置は誰でも考え得る事であった。実際、今、世界には、英米の考えた、いわゆる大西洋憲章(1941年8 月) の後、生まれた多くの国際会議を経て、敗戦国日本の憲法の不戦の誓いはその結果とも言えないか。そのような歴史を持った戦争廃止という国連による大計画も、その提案国である英米などの発展先進国によって、いとも簡単に破られる。そのような国際関係を続け、今日に至っている。史実を見るとき、フロイトは、その国連の発想は評価しつつもその実際の困難さを実に明確に記載している。 以上のごとく、フロイトのアインシュタインに対する長い手紙の内容のその最後は、フロイトの関心の深い文化の問題について書かれているが、その結論は非常に短く簡単で、ポツリと終わっている。このフロイトの結論は、その日本語訳が示すように、「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことが出来る」と簡単に理解してよいのであろうか。現在の文明国での少子化の現実と合わせて見た時、この日本語の結論をそのまま、文化は戦争の終焉を約束、予言したものと言っていいのか。実際、彼の晩年74 才の作であるが、フロイトには『文化への不満』(Das Unbehagen in der Kultur) と題して真正面から現代の社会文明を論じた著があり、その中では詳しく近代文明の至らざるところを明確に記載している。そのようなフロイトが、同じく近代知性の峯と考えられるアインシュタインへの手紙の最後の結論として、安易に文化の進展による戦争の終焉の実現の可能性で終わることは、フロイトの真実であるのか。国連の実体を知っている我々は、不戦の可能性を、残るところの哲学に託しているだけに、このフロイトの結論は、私には、ややもすると大きな絶望に傾くのである。
おわりに
私がこの二人の手紙を特に取り上げ、この文章の副題として、「アインシュタインとフロイトの悲しみ」と述べたのは、このような気持ちの現われである。これが人類最大の問題であるだけに、近代知性の峯と峯の問答を、このままでは捨ておけない重大な意味があると考えたからである。 実際、文化は人間のエロスの抑制として、戦後、ヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse 1898−1979) に行き、69年代を頂点とする世界の大学紛争を起こしている。マルクーゼは現在の人類の発展した文化を偽りの文化とみなし、その破壊とともに、フロイトのエロスの抑圧による文化の破壊として、性の解放を唱導した。マルクーゼの主張は現代政府の力によって鎮圧されたが、その初めの主張、文化の破壊の部分、それが何とか鎮圧された後も、強く残り、それが自由の主張となり、自由解放、小さな政府の風潮のみが世界に広がり、特に世界の文化の中枢を任ずるアメリカではその傾向が強く、またミルトン・フリードマン(Milton Friedman 1912−2006) の経済理論である自由化論も一役かって、現在の世界的な混乱、社会道徳の退廃の原因を為しているのではないか。私には経済理論は解からないのであるが、私が臨教審の会長をした時、我が国一流の経済学者は口を揃えて、教育の自由化を唱えたことも記憶に鮮明に残っている。それの教育への影響はもとより、経済の世界への影響、人間の信頼の喪失という今日の大不況の原因を成していると考えている。その点においても、この二人の悲しみは実にシンボリックと言わねばならぬ。
さて今後、この現実は、いかなる経過を辿るものであるか、私には勿論わからないが、私は常々、教育改革の任にあたった者として、かかる時、悲観では終わらせられないと考える。この時、日本から出た哲学者、西田幾多郎の哲学に接し、希望を持って熱い気持ちで、その哲学を継承し、推進して行きたいと思うのである。この時、私は常にルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach 1804-1872)の言う、「人類不滅の青春」(die unverg?ngliche Jugend der Menschheit)を思うである。人類が心を持って以来、まだ500 万年である。生命の誕生48 億年から比べれば文化をつくる人類は若く、前途に大きい希望を持てるのではないか。フォイエルバッハの「人類の不滅の青春」とは何であるか。私はこれを心を持ってからなお若い人類とみなし、ルネッサンス以後の近代の人類、また明治維新以後の日本の国民、およびそれを引き継いだ日本の近代化、古い伝統のある日本の文化に接木されたまま百年を過ぎ、第二次世界大戦の敗北を味わって、世界の趨勢に従って、いたずらにニヒルに陥ることなく、世界人類の致命的な汚点に立ち向い、人類の共生を目的として立ち上げることが現代の教育の目標でないかと思う。
以上本文の最初に述べたゲーテとヘーゲルが人類未来のあるべき姿として、世界文化「心」と他とともに生きる「共生」をともに戦争の真中に述べている事を考え、私の人間の定義「人間は大きな心を持った共生を本旨とした生命体である」から出発した私の教育論義を終る。
200 8年12月26日