サロン談義4(3)           「環境と健康」 Vol.21No.3 2008

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愛国心について

岡本道雄

*(財)日独文化研究所理事長・所長、元京都大学総長(解剖学)

 本誌の前号で私は「親孝行」が、ギリシャの時代に重要視されていたことについて、ギリシャ哲学、主としてソクラテスとプラトン全集から語った。従って、今度は愛国心である。今回の愛国心についても、それが田中先生のお薦めであるので、当然、前号と同様にソクラテスとプラトンに従って、当時、国家、または愛国心、更に愛国者というものは如何に考えられ、扱われていたかを書こうと考えた。真の愛国者は深く国家を考え、そして公平なバランスのとれた人の愛国心でなくてはならぬ。そこで哲学者が浮かんでくる。ここ数年来、「プラトン全集」を読んでいる間にソクラテス、プラトン、彼ら自身こそ本当の愛国者であることに気がつき、彼らがその祖国アテネを如何に考え、如何に愛し、如何に行動したかということを現代の世に生きる者として、正確に伝えることが大事であると考えるに至った。斯く考える内に京都大学に関係ある者として、ここに改めて我が国及びその愛国者を考えたとき、いわゆる京都学派の中心人物である西田幾多郎先生の哲学者としての愛国の精神に大きく、魂の惹かれるものを感じた。ソクラテスやプラトンは、祖国アテネとスパルタとのペロポネソス戦争(前431〜404)における敗戦の時、片や西田幾多郎先生は去る第二次世界大戦での日本敗戦の時、それぞれ国民として、何を考え、何をしたか、その内容こそまさに知識人としての愛国心、愛国者の姿を語るものではないかと考えるに至った。人間は一生常に、どの一時も真面目に生き通せるものではない。しかし自ら祖国が危急存亡の時、その国の偉大な知識人は如何に自国の運命を思い、如何に考え、如何に行動したかを考えてみよう。 初めは田中先生のお言葉もあり、先ずはギリシャ哲学から入ろう。ソクラテスとプラトンは自らの国家を如何に考えていたかである。プラトン全集の出版は数種あるが、各プラトン全集はそれぞれ全体として10 巻に及ぶ大著である。その中で、プラトンが特に力を入れて書いたものとしてプラトン全集における「国家篇」のみで409 頁であるのに対して、それ以外の名高い「ソクラテスの弁明」を始め、「クリトン」、「エウテプロン」、「コルギアス」、「メノン」、「饗宴」、「パイドン」といった力の入った諸著作を併せても396 頁であることを見ると(藤沢令夫による)、プラトンが後世の人類に伝えるものとして、「国家篇」を如何に重視していたかが解るのである。彼が国家を論じるとき、先ず国家のあり方として正義が如何に重要であるかを語るのであるが、この国家篇の原著の題は「ポリティア(Politeia)」であって、直訳すれば「国制」とでも言うべきところを、その内容からみてこの国家篇は「正義篇」とすべきであるとの烈しい論争があった。標題を「国家」とするか、「正義」とするか両派に分かれ、長い論争下にあったと言われている。余談ながら、戦後の日本がその憲法において、不戦を誓ったとき(第9 条)、私はそれでは国際関係において、日本が力とすべきものは正義よりないと考えていたので、このプラトンの国家篇の名称の論争は、大変印象深いものであった。今、その正義の仔細に入ることは出来ないが、その内容は深くソクラテス、プラトンの哲学、「イデア論」に関係すること、同時に国家の正義は国民一人一人の正義に依存するとの主張は、ふと明治維新において福沢諭吉の「学問のすすめ」の中の「一身独立して、一国独立す」との名高い言葉を思い起こす。 さて、その重視された国家において、プラトンが強く、大きく主張したのは、次の二つのことである。その一つは、国家の統率者のこと。今ひとつは国家の正義の内容をなす

「イデア論」である。言うまでもなく「イデア論」は、プラトン哲学の中心である。 先ず、第一の国家統治者論の内容である。これは一般に「哲人王の主張」とも呼ばれるが、一国家が正義を中心とした立派な国家となるためには、国民一人一人が正義を重んじる事が重要であることは勿論であるが、その際の統治者である政府の役人、その国のリーダー、または君主という者が特に哲学をわきまえた人物でなくてはならない、統治者は哲学者であれという主張である。この主張は当時のアテネの国においても極端であって、多くの国民がすぐ納得するものとは考えられなかった。それではプラトンは何故、この「哲人王の主張」に熱意を持ったか。それには深い理由があった。プラトンは名門の出で裕福な教養ある家庭に生まれ、二人の兄と姉一人の末子である。生来利発な子供であったが、このプラトンの家に当時アテネの国では人類の師とも言われたソクラテスが出入りしており、プラトン自身も幼児の頃より次第に偉大なソクラテスに、大きい親愛と尊敬の念を懐くようになっていた。アテネの市民にとっては、デルポイの神託が人間の知の最も勝れた者はソクラテスであると言ったと伝えられていた。これについてソクラテスは、神は偽りを言わないことを考えた結果、神のそのお言葉の本旨を深く考え、後世ソクラテスの、いわゆる「無知の知」を悟るに至った。しかし、この様に国民一般が尊敬していたソクラテスは、「無知の知」を理解できなかったアテネ国の支配者達によって死刑台の露と消えた。時にソクラテスは70 歳、プラトンは28 歳の青年であった。この大悲劇は、若きプラトンの精神を痛め、彼はこの事件によって一国の在り方、特に国民と支配者の在り方が如何に重要であるかを深く考え悩み抜いた。彼の愛国心の極みである。その悩みの10 年後、40歳の時、アテネからイタリアのシシリア島への旅行の出発の頃、その結論を得た。彼がこの考えを発表した時、当時の国民一般は哲学とは若いときの遊びであって、よい年をして哲学をやる者は馬鹿であると考えていて、彼を非難、嘲笑するであろうことを考え、その後、哲学及び哲学者について、彼の根本的な考えとその重要さを国内を広く回り説き歩いた。そして12 年がたち、第2 回目のシシリア島への旅の時、決意してプラトンの

「国家篇」を書き、その中に「哲人王の説」と第二の主張である「イデア論」(イデア哲学)を発表した。従って、この発表はその発想から20 有余年をかけたものである。 プラトンの祖国アテネに対する第二の主張「イデア論」は、上述の一国のリーダーと国民の持たねばならぬ正義の内容であった。哲人王の説にしても、国家国民の正義にしても両方ともに、ソクラテスに傾倒しているプラトンが、その根本は、その師ソクラテスの教えを継いだものである。彼は深くソクラテスの哲学から彼特有の、いわゆる「イデア論」を構築するに至った。イデア論については、本誌21 巻2 号に掲載のサロン談義4(?) 「親孝行について」の中で「洞窟の比喩」を述べたので、ここで詳細に入ることはしないが、イデア論の本質的な主張を少し述べると、例えば、世の中には多くの美しいものがあるが、美そのものは魂で感じ得るものであって、そのもの自身は見ることも、触れることも、聴くこともできないものである。従って、彼の哲学の中心であるイデアは五感の全てを絶し、魂のみが感じ得るものである。この様な魂は肉体の汚れを知らないものであって、汚れなき魂は、肉体の死後もその清らかな姿のままで永遠に生きるものであるというのが、プラトンの「魂の不死」である。これがいわゆる「哲学すること」は、「死の練習」であると言われる由縁である。前述のように、彼はこの哲人王とイデア論の二つを直ちに発表することなく、それから12 年後、彼の一生初めてで唯一の論文、いわゆる後世のプラトン全集の「国家論」を書くに至った。この20 年間を彼の「彷徨の時代」と言う。この発想から発表まで20 年余をかけた訳である。 さて、いよいよ渾身の力を込めて国家論を書き上げ、彼の考えが世に伝わるや否やアテネ国内からは、かって予想したとおり、轟々たる非難の声が挙がって来た。その重要なものは次のようである。その一つは、彼の「哲人王」に関するもの、今一つは彼の哲学、

「イデア論」に関するものである。私が敢えて、ここに当時の二つの反論を掲げるのは、ソクラテス並びにプラトンが学者として祖国の重要な問題に意見を述べるとき、如何に深く慎重に、謙虚に考え続けたかを後世に残すべきものと考えたからである。 第一の問題、哲人王に関して、ソクラテスに正面切って立ち向かった人物は、当時の政界に重きをなしていた政治家カリクレスであった。彼の主張を簡単に述べれば次のようである。「 我々が自分たちの統治者を選ぶ時は、自分たちの中で最も勝れた者を、獅子の子を飼い慣らす様に幼い頃から、人間は平等を守らなくてはならない等と言い聞かせ、大事に育てあげるが、実際はその者を祭り上げ奴隷化することになる。これが普通である。しかし、世の中においてはまれに実際、豊かな天分を持った者が現れる。彼は全ての伝統、習性を振り切り、規則も守らず、今我々がつくった奴隷にした男を王様に祭り上げる。その王様を使い、自分の思ったことを全て実行する。実際は強者が弱者を支配し、弱者の所有物を力づくで取り上げ、自分の権力と知恵と勇気によって、自分の様々の要求を満たすが、大衆はこれを見て、せっせと正義を褒め讃える。これが実情なのだ」と。カリクレスは更にソクラテスに向かって、「あなたも哲学は教養の程度に留めてはどうか」と勧めた。これに対するソクラテスの返答は、「他の人たちが心に思っていても、口に出して言いたがらないことを、あなたは今、私の前で明らかに言ってくれた。どうか、その主張を止めないでくれ」と。このカリクレスへのソクラテスの言葉は、「哲人王」に対してプラトン自身が決意の程を固めるものとして、自らに言い聞かせたものである。彼は哲人王の主張を頑として譲らなかった。ここに見るように、この哲人王の考えは、当時のアテネ国家においても破天荒なことであったかも知れないが、それから2500 年後、今日の日本の霞ヶ関の政治を眺めるとき、統治者は哲学を持つべきであるとの教えは、生きていることを感じるのである。前号で述べたが今日多くの国際会議の前には、当該問題に関係ある二国の代表が二人で相語るのが習慣であるが、二人の会談の時、各人の自らの内に養って来た哲学が勝負を決めるのではないか。レーガンと中曽根のいわゆるロンーヤスの関係は、果たしてブッシュと小泉、ブッシュと安倍、ブッシュと福田の間に生まれたであろうか。ソクラテスが譲らなかった2500 年前の哲人王の論は、現在の世界でそのまま生きているのではないか。 もう一つは「イデア論」への反論である。前述のように、哲学は「死の練習」であるとは、「魂の不死」を主張したものである。これに対しては、前の「哲人王」に対すると同様多くの反論が続出した。例えば、アテネ市民の有力者ケベスである。ケベスは言う。

「プラトンのイデア論で肉体からの知覚を排除することは人間の死である。肉体が滅びたとき、魂はその瞬間から消滅するのが本当である」と。この考えは一般的庶民から考えれば、常識的というか、根強いもので、これに対しソクラテスは直ちに返す言葉もなく、黙ってしまった。このイデア論問題に関してはこのケベスのみでなく、その後、当時哲学史上の巨人、エレ派の元老パルメニデスとその門下ゼノンの二人が、ソクラテスに向かって、この「イデア論」の不備を突いた時、ソクラテスは、これに対して能う限りの弁明を繰り返すが、老パルメニデスの追求は更に続き、その矛先を納めなかった。その後の長く続く議論の詳細は略するが、この議論はその後、2500年経った今日、なお、一流のプラトン研究者の中にも、プラトンは一時、「イデア論」を放棄したのではないかと言う研究者もあるという(藤沢令夫による)。この経緯を見るとき、私がソクラテス、プラトンの態度について大きな感動を受けるのは、この偉大な二人の哲人が自分の長く、深く考えた構想であっても相手の反論を素直に聞き、その上でも主張すべきものは主張し、疑問あるものは相手が納得いくまで問い続ける態度である。論議の対象となった問題は、2500 年後の世界の中においても新鮮な問題として生き続けている。イデア問題の本質は、簡単に言えば死後の魂は生き続けるか、消滅するかの問題である。これは心の本質の問題であるが、現代においても矢張り未解決である。今から40 年ほど前、分子生物学の創始者ワトソンとクリック、そして利根川進の三人が、東京のシンポジウムで、この問題は21 世紀中においても解決しないと断言している。2500年の疑問は遂に人間の知恵、哲学の極みを示すものであろうか。以上、私は人類の師であるソクラテスと、西洋哲学の祖であるプラトンが、自らの祖国の存亡の時、如何にその過去の経験を生かし、持ち前の才能の限りを尽くし、深い哲学的思考の末、母国の繁栄と未来における発展に対し、自己の著作において、最大の力を注ぎ国家篇を書いた事で、ソクラテスとプラトンの愛国心をみる事ができたと思う。この際は、田中先生の指示に従ってギリシャ哲学の中で中枢のソクラテスとプラトンを選び、その時代の遠いこともあって、何ら特別の配慮もせず、

愛国心の実際を彼らの国家篇の内容の紹介で済ました訳である。皆様も一国家における、優れて思慮深い人の愛国者のあり方として異論なく納得していただけると思う。 さて、この次は日本の愛国心であるが、これは西田幾多郎先生の歴史である。所謂、京都学派の祖である西田先生を日本の愛国心、愛国者の代表として述べる事には色々の配慮と説明を要すると思うが、前述のソクラテスとプラトンと同様、日本における哲学者としては第一人者と認められる西田幾多郎先生をその模範とすることによって、素朴に愛国心を述べてみる。私は既に述べたように2002 年9月11日から長期入院の余儀なきに至った。その間、かって気にしていた二つのことを果たしたいと心に決めていた。その一つは、私の任期中にあった大学紛争の哲学的背景について勉強すること、今一つはいわゆる京都学派と呼ばれる、日本では唯一最初の世界的哲学者、西田幾多郎先生の哲学を、せめて浅くとも勉強することであった。大学紛争の哲学的背景については、素人としてお粗末ながら勉強している内に、西田幾多郎先生の一生と、その哲学を述べることで、我が国における代表的知識人の愛国心、愛国者としての実態に触れてみようと考えるに至った。 西田( 以下、西田と呼ばして頂く) は、明治3 年(1870)5月19 日、石川県河北群郡宇気村宇守に生まれる。父は得登(ヤスノリ)、母は留三(トサ)の長男。同地の小、中学を出て、16歳で金沢市にあった後の第四高等中学校に入る。時の校長であった北条時敬(1858〜1929)の知遇を受け、校長宅に寄宿。北条は北川洪川と言う禅僧のもとで禅を極めた。この第四高等中学の生活は、西田の人格形成の基礎となった。しかし、北条校長の転出後、鹿児島から来た校長の教育方針に納得がいかなかった西田は、東京に出て東京帝大哲学科の選科に入った。西田が東大で哲学を学んだ頃は、西洋文化の一端として、日本に移入された哲学なるものを、東大の教授は教えるのに苦労した時代であった。日本に哲学と言うものは無かったのである。中江兆民が「日本に哲学なし」と言ったのはこの時代からの事。その中を西田は独学で苦労を重ね、ギリシャ哲学を勉強し、東京帝大の選科を卒業し、故郷金沢に帰った。その間、西田家は破産没落し、彼としてはいわゆる「帰るに家なし」といった状態にあった。その上、運命というか、金沢に帰った西田の身辺には多くの苦悩が重なった。弟の戦死、次女の病死、五女の病死、人生悲哀の極み。それでも西洋哲学を深めると共にこの間、郊外の洗心庵の雪舟老師に付き、座禅を始めた。北条先生の感化は勿論であるが、母親の信心深い性格を継いだものであろうか。この金沢の生活は10 年続いた訳であるが、少年時代、四高生として送った金沢の生活とは対照的で苦悩に満ちたものであった。実に彼の哲学はこの時に生まれたものであって、この間、彼は哲学の処女作「善の研究」を書き上げていた。 その後、彼は彼地の学校や、山口高校等で教鞭をとるが、時満ちたというか、明治43 年(1910)8月、40歳の時、京都帝国大学の助教授に任命され、京都に移り住むことになった。ここに西田哲学と京都の関係が生まれる訳である。翌年、明治44 年(1911) に「善の研究」を東京の弘道館から出版した。「善の研究」を当時、哲学が無い時代の青年はむさぼるように読んだ。難解である。哲学は本来、深い人間の思索を言葉で表現するものとしてその難解さは当然であるとしても、西田の哲学にはギリシャ発の西洋哲学と、彼の座禅の成果として、その中枢として仏教、特に禅の精神が含まれていた。このところが西田哲学は人間の思惟として深いほかに、いわゆる東洋の哲学としての禅の表現に、西洋哲学の及ばぬものを持っていると言われる由縁である。ここで仏教と言い、禅と言うのは、言い換えれば西洋哲学に対して東洋哲学とも言え、西田哲学は従来の西洋由来のギリシャ哲学に東洋哲学を加えたものと言うことができ、また東洋哲学と言った場合、哲学から宗教に移行した部分を含むと言う事となる。これが西田哲学が難解と言われる由縁でもある。 私は西田哲学を「善の研究」から始めて、高山岩男の「西田哲学とは何か」(高山岩男著 燈影舎 1988年) を手引きとして、西田哲学の概要を了解する予定でいて、実際、高山の解説を読み進んで来た。ところが、西田哲学の中枢とも言うべき「場所の哲学」と「絶対無の哲学」のところまで来て、どうしても理解できず、龍谷大学の大橋良介教授に教えを請うた。丁度、同氏の「場所の哲学」と「絶対無」の大学院講義に出席させてもらい、院生と一緒に聴講することを許されたが、「場所の哲学」の方は何とか解り始めた気がするものの、「絶対無」の方は今日尚解らず、私の初めの計画と異なり、西田哲学全体に亘って、私なりの理解をして、日本初の哲学者西田が、あの日本における開闢以来の存亡の秋を如何に迎え、過ごし、そして敗戦の直前に死を迎えたかの詳細を述べることができなかった。 さて、いささか西田の経歴の説明が長くなったが、本題の西田及び京都学派の人々の愛国心に移ろう。これについては田辺元の晩年の弟子大島康正の手記「戦後の証言」(大島康正、中央公論、昭和4 0年8月号) に従う。まず、西田が金沢から京都に来た時代の日本全体の状況はどのような時代であったろうか。大体を略記してみると次のようである。1910 年:日韓併合、幸徳秋水らの社会主義者、逮捕される。1912年:中華民国成立、首都南京、朝鮮滅亡。1914年:7月第一次世界大戦勃発。1917年:ロシア革命。1920年:国際連盟発足。1922年:日本共産党結成。1923年:関東大震災。

 私自身に関して言えば、昭和6 年3 月三高文乙に入学。時代としてはすでに大変な時代へ入りかけていた。大学を卒業した昭和16 年には、太平洋戦争がはじまった。社会的には、昭和5 年(1930年)11 月4 日、浜口雄幸首相が右翼の青年に狙撃されるという事件があり、浜口が三高出身であったこともあって大きなショックを受けた。昭和7 年(1932年)5 月15 日、武装した海軍の青年将校たちに犬養首相が射殺され、政党内閣は崩壊した。同年11 月、右翼団体血盟団により井上準之助・団琢磨が暗殺された。昭和8 年(1933年) に滝川事件。昭和10 年(1935年)、美濃部事件。昭和11 年(1936年)2 月26 日には陸軍皇道派の青年将校らが1000 余名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げたクーデター未遂事件があった。以上のような時代背景を持って、京都にきた西田の生活はどんなものであったろうか。 26 年間と言われる西田の京都時代は彼の人生の中核。その学問的成果については、万巻の書物がある。私にはその彼の国家に対する愛情、自らの専門研究を通じての国家に対する真情を注目しようというのである。京都に来た西田は自己の哲学を深めるだけでなく、その周囲に優秀な哲学者を集めた。宗教哲学の波多野精一、近世世界史の朝永三十郎、中国哲学の狩野直喜等。しかし、彼が誰より注目したのは、東北大学の若き講師、田辺元であった。当時、彼の師、北条時敬も東北帝国大学総長であった。田辺への西田の入れ込みようは非常なものであって、田辺が京都に来るまでに出した西田の手紙は50 通を上回るといわれた。その他、西田が努力して招いた哲学者には、当時36 歳で倫理学の和辻哲郎がいた。後世、京都学派と言われた若い哲学者は自然にできたものではなく、西田のこのような厚い情熱の賜物であった。その他、高名なる京都学派の若い哲学者たちはそれぞれ、あるいは東京の一高、あるいは東大より京都大学、即ち哲学者西田のもとに馳せ参じたものである。 このような哲学者と共に前述のような日本の危機的状況を背景として、西田は何に向かって力を入れていたのであろうか。その実情は彼らの出版した著書から伺うよりほかない。? 田辺 元: 朝日新聞、昭和8年10月4〜6 日、「危機の哲学、哲学の危機」、ナチとハイデッガーの接近を批判。?田辺 元:改造、昭和11 年10 月号、「科学政策の矛盾」政府の科学技術政策の軍事利用を憂う。これは近衛文麿への上申文である。近衛内閣( 第一次)は、昭和1 2年6月4日成立。?田辺 元:中央公論、昭和18 年10 月号、「国家の道義性」。?高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高:中央公論、昭和18 年3月号、「世界史的立場と日本」。この様な著書によって、日本の海軍は京都学派の国家に対する考え方に共鳴を感じ、その結果、太平洋戦争の半年程前に海軍からの使者が京都学派に協力を求めるに至った。 京都学派もこれに応じ、座談会を開くことになった。そのメンバーは、高山岩男、高坂正顕、西谷啓治、木村素衛、鈴木成高であって、代表高山は文学部公認であった。また、大島康正はその事務を司ったと言う。田辺も時に出席、ゲストとして湯川秀樹、柳田謙十郎等。その座談会の中、国民一般への啓蒙のため、中央公論に公表されたものは次の三つ、その日時と中心議題は次のようである。第一回:昭和17 年1 月「世界史的立場と日本」。第二回:昭和17 年4 月「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」。第三回: 昭和18年1月「総力戦の哲学」。以上の座談会の内容については、大島が克明にメモをとり、海軍に送る訳である。その他大島は西田の日記と手紙に対してもその多くのものを集めており、以下、西田及び京都学派の戦前、戦中、戦後の素直な発言、国家に対する心情、西田の言行については大島の手記、哲学の内容については、高山岩男の「西田哲学とは何か」(1988 年、燈影舎)によって書こうと思っていたところ、その時、私は思いがけなくも、佐伯啓思の「日本の愛国心」(NTT 出版、2008)を発見した。それはさすが専門家の著であるだけに、かねて私が気にしていた愛国心と言う言葉に対する諸配慮も、極めて詳細、且つ注意深く述べられていた。その本の後半、重心の感ぜられる部に「京都学派の試み」という部分があって、日本の近代化のジレンマを堂々と、哲学的に整理しようとしたことが詳細に述べられているではないか。これで私は西田と愛国心を結び付けることへの配慮も教えられ、以上の様な高貴な資料から、西田の一生を、愛国心、愛国者としての面を述べることとした。西田の場合もソクラテスとプラトンに倣って、その愛国者の問題を、主としてその本職とされた哲学を中心として、素人の身も顧みず、不学も恥じず述べることとする。従って、愛国心、愛国者と言った題目の下で、哲学者西田を選び、今日の日本人にとって、特に哲学の重要性を感じ、敢えて以下の3 項目をあげて本論を終わりたいと思う。 ?日本に哲学を創めたこと:西田の22 歳(1891年、明治23 年)東京帝大文科大学哲学選科入学の頃、尚、日本には哲学はなかった。西田は独学で西洋哲学を勉強した。日本に哲学をもたらしたことは、西田の大きい貢献である。前述のように「日本に哲学なし」と言うのは中江兆民の言葉であるが、明治維新から今日まで、約1 世紀、日本の哲学というものには少なくとも一般的評価としては、世界的なものを見ていない。今私は、我々の教育について考えるとき、哲学の重要さを強調するのであるが、それには理由がある。かつてのヨーロッパ世界において、イギリス、フランスに比較して後進国であったドイツにあっては、その国の文化のうち特に哲学に力を入れ、後世ドイツ観念論なる哲学の一派を創出し、カント、ヘーゲル以下偉大な哲学者を生み、ドイツのヨーロッパにおける存在の重きをなした。それが第二次世界大戦で大きな失敗を重ねながらも、今や、早くも西田の言う歴史的世界、EUを完成させようとしている。これに比し、哲学を重視してこなかった日本は、西田が主張したアジアを含む歴史的世界の展望を示すことからほど遠い。ここに私は、西田が日本の哲学を創めた事の貢献の重要さを思うと共に、その意義を愛国心と言う言葉で考えてみたいのである。 ?西田は57 歳(1926年、大正15 年) で、論文「場所の哲学」を発表する。これは西田哲学の中枢とも言うべきものである。西田哲学と言えば場所の哲学、場所の哲学と言えは西田哲学である。既に述べたように、私は高山に従って勉強したが、一向に解らない。遂に大橋教授の講義を聴いて、私なりに解りかけたと思っている。それに従って、西田の場所の理念と、その現実の展開、即ち国家への貢献を述べる。その最初は個と場所の問題である。従来、一般には個ありて場所があると考えるのであるが、西田においてはその逆で、個を考える前にその存在の場所を考える事である。逆転である。このことの意味は意外に大きく、少なくとも3 つある。(イ)場所はいろいろの次元で語られるが、その歴史世界での在り方は「世界」そのもの

である。ヨーロッパは19 世紀まで世界というものを西ヨーロッパ、せいぜいインドまでと見ていた。これを西田は唯一の世界でなく、単に一つの歴史的世界と見た。実際、20世紀に入り、新しい歴史的世界、日本とアジアが加わった。歴史的世界とは、このほか沢山あり、西田はこれらの局所的世界の集合としての「世界」を考えた。それにより、世界の概念は突如として大きく変わった。各国、即ち自らの住む歴史的世界の外に、多くの歴史的世界がある。それを知ることは、国民意識の転換である。

「世界史」の概念に日本とアジアが加わったことは、世界史の大きな飛躍である。世界の発見は、その後日本人の国家を考えるときの大きな進歩である。これを以て、西田の国家への貢献と考えることに異議はあるまい。

(ロ)個より場を第一に考える事。それまで西洋文化の中心的な考えは、人間の存在を主体と考えて、その環境を二次的と考えてきたことである。この考えによる近代文明の行き詰まりが、現在の環境問題である。今日、世界的な課題をなしている、所謂、地球環境問題はまさにこれである。主体を個に置き、場所を二次的に考えた結果である。この問題は大きく長いスパンで考える時、所謂、「近代文明と人類の将来、未来」の問題である。この問題は古くから西洋哲学でも重要な課題であり、ギリシャ哲学においても技術の問題としてゼウスの神にとがめられたといわれるが、それに続く西洋哲学では、ルソー、ゲーテが問題とし、ハバーマスによれば、これを本格的に哲学的問題とすることは、ヘーゲルから始まり、ハイデッガーに及ぶと言う。この文明、即ち、個を主体とし環境を従と考える思想は、実に近代思想の中核であって、ヨーロッパのルネッサンスから始まり、近代文明、西洋文明、現在の文明に至るものである。日本でも、最初は三木 清によって「場所の思想」が論じられ、戦時中は「近代の超克」というテーマで論じられたが、これは戦後いろいろ、誤解も混じえて非難された。ともかくも場所の思想は、思えば個から場所へ、環境へ中心を移すことである。人類の未来に関する大問題である。西田は、この現在の世界的問題の由来と、文明の中核的問題点を指摘したのである。これをして西田の小さくは日本国家への、大きくは人類への貢献というべきである。

(ハ)絶対無の思想。先に私は、西田哲学の勉強中、場所の理念と絶対無の思想は理解出来ず、大橋教授の講義を聞いたことを話した。その後もこの絶対無はよく解らない。解からないままで、特に関心を持つのは、西田哲学が宗教の境地に入る道が絶対無の理念でないかと思うからである。哲学から宗教への移行は私の大きな関心事である。哲学と宗教の問題は、近代文化の洗礼を受けた人類の、常に大きな問題であって、この絶対無の思想に関しては、今後深く考え、教えを受けたいと思っている。

 ?近代文明の行き詰まりに関して、これを解くことは人類知識に対する最大の課題である。知識の課題は哲学の課題である。この問題について、哲学史上において、古く、長く論ぜられてきたいろいろの思想を参照する必要があることは、言うまでもない。この問題は人類の極悪の本性、闘争に関わるかも知れない。この問題は次号で考えて見るつもりである。この問題に対して西田は、学問の常道である弁証法を用い、西洋文化と東洋文化の対立から始めているが、東洋文化における日本文化に関して深く考え、いわゆる京都大学における月曜講義「日本文化の問題」の大著を残した。この中に彼の哲学すること、学問的態度への厳しさが集中されている。前記西田哲学の世界史の発見を継ぐ、森 哲郎編、京都学派の「世界史の理論」(2000 年、燈影舎)の巻頭の言葉は、西田の「学問的方法」から始まっている。我々大学人の心すべきところである。 以上、私はギリシャの哲学者ソクラテスとプラトン、及び日本の世界に通じる哲学者西田について述べてきたが、この人達の愛国心を明らかにして、我々の国家に対する考えのうち、重要なものを総括すると次のようである。

1)私どもは人間としての西田及び哲学の専門家としての西田の、いわゆる日本のため、言い換えれば愛国心とその実情を見てきた。これがソクラテス、プラトンと共に、西田の祖国の存亡の秋、発揮した愛国心である。愛国心という言葉は、ややもすれば戦争と結びつけられ、禁句の様に言われるが、それは決して戦争に限らず、健全な国家に対する自然な国民感情である。

2) 西田が「日本文化の問題」(1966 年、西田幾多郎全集第12 巻) において強調した様に、学問に向かう精神は公明正大、如何なる批判も恐れず発表することによって、それが一歴史的世界の所産が普遍的世界の所産となることである。このことは科学技術については理解しやすいが、文化科学においても極めて大切なことである。

3 )西田哲学は、「日本に哲学なし」と言われた日本に生まれた、初めての普遍的世界レベルの哲学である。それを、特に京都学派と呼ぶ事の意味は別として、西田哲学を継承することは、我が国知識人の大きな義務でもある。私が先に挙げた西谷啓治を中心とした「世界史の哲学」は、まさに力強いその第一歩ではないか。その世界史の哲学の巻頭に、先に述べた西田の「日本文化の問題」の「学問的態度」が掲げられていることは誠に意義が深い。

4 )私は本来、この拙稿は我が国の教育の、一時的であれ責任者(臨時教育審議会会長)として始めたものである。教育の原点は、人間の心の激励にある。従って、明治維新以後の日本近代化における今日までの経過を、そのジレンマに注目し、大きな悲しみと言うよりも、それがルネッサンス以来の世界人類の問題であると考え、初めて

世界史への登場に対する道義的原理及び世界観を創出したものとして、日本教育の原点として考え、自主的、根本的教育改革の出発としたい。 以上で、私が中曽根総理から頼まれた臨教審会長の就任の時、日本の教育の要として、田中美知太郎先生から教わった「親孝行と愛国心」の二つについて論じた。実は、それが当時、私に対して、教育の内容についてお教え頂いた唯一の言葉であった。しかし、臨教審の中では議論しなかったが、その後、常に私の気持ちの中に残っており、この「親孝行と愛国心」は必ず自ら勉強して、日本の教育の中に生かさねばならないと考えていた。田中先生ご逝去の後、幸いにも先生の第一のお弟子、藤澤令夫教授が私の親しい友人であり、この度の私の一生初の長期入院にも、病院まで持参したのは、藤澤君の著「プラトンの哲学」一冊のみであった。私はこの藤澤君の「プラトンの哲学」を基として、田中先生の「親孝行と愛国心」を考え、その結果を本誌に書くことが出来た。何分素人なので、これ以上の事は書けないが、田中先生と藤澤君は、笑いながら読んでくれることでしょう。私にはお二人のご好意に感謝するのみです。 この次には、戦争について、不戦を誓った日本の国民として私の勉強中に感じた事を書くが、この間できる限り勉強した西田哲学に関し、極めて得るところが多かったので、かねて丈夫なときから書きたいと覚悟を決めてきた「臨教審会長三十年の回顧」として、西田哲学の教育哲学を基本に命ある限り書き終える所存である。

                                           200 8年9月19日