サロン談義4(2) 「環境と健康」 Vol.21No.2 2008
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教育改革に対する私見
岡本 道雄
(財)日独文化研究所理事長、元京都大学総長(解剖学)
前号を読み返してみると、さすが94才の老人だけあって、文章に力と艶がなく、繰り返しが多く説明も充分でないことに気が付く。申し訳ない。それで本号の最初に前号で強調したかったことをはっきりしてから本題に入る。
前号の要点:
1.日本ではここで一度、自分で教育を根本的に考えねばならない。
2.教育を根本的に考えるとは、「人間とは何であるか」から始めねばならない。
3.「人間とは大きい心を持った、共生を本旨とする生命体である」。「あらねばならぬ」。
4.人間の実存の実際は次の3つの段階に分けられる。?家庭、?国家、?世界(人類)。
5.心を持った人間には教育、宗教は必須のものである。
本題に入る。臨教審を引き受けた夏のある日曜の朝、私は田中美知太郎先生の鹿ヶ谷の質素なお宅の応接間で先生から次のようなお話を承った。
<岡本君、教育の根幹は親孝行と愛国心の二つだよ。君はこれから日本の教育の審議をするので、何より大事な事と思って君にこの事をお話ししたかったのです。>
それから、先生は色々とお話して下さったが、その他の多くは忘れてしまった。しかし、先生のお言葉の中、教育の根本は「親孝行と愛国心」というお言葉は私の胸に染みついて離れなかった。臨教審の会長になったが、私に教育について親しく助言を頂いたのは田中先生のこのお言葉のみである。
審議会の張本人の中曽根総理は特に遠慮されてか、教育の内容については私が積極的に聞いても何もおっしゃらず、「もし何か判らないことがあったら瀬島君に聞きたまえ」とだけおっしゃった。当時、私はこの瀬島龍三という人を識らなかったが、この方はその後、私の師と仰げる一人となる人である。従って、田中先生の「親孝行と愛国心」は臨教審会長の私に与えられた教育の内容として唯一の助言であった。
しかし、実際の臨教審では私はこの田中先生のお言葉にかかわらず、「親孝行と愛国心」を話題とすることはなかった。教育に対する私の自信のないこともあって、当時、世界を風靡していた経済学者、米国のM・フリードマン(M・Friedman(1912〜2006))から教わった日本の経済学者の受け売りの「教育の自由化論」に吹きまくられ、議論の内容は教育の自由化を中心として終始した。そして、臨時行政調査会の土光敏夫さんの国鉄民営化と比べられ、臨教審は不成功であったと言われ終わったが、私の心の中には田中先生のお言葉が残っていた。
前号で、私は教育の問題は、今日の日本のように次から次へと内閣が代わる毎に審議会を作って、その場その場の対策ではなく、日本の教育は歴史的にも一度根本的に考えてみるべきことを提唱した。「根本的に考える」とはどんな事であるか。ここで皆様と考えてみよう。その際、前号でも一寸触れたドイツ大統領の実兄であるCarl Fredrich von Weizs?cker(ワイツゼッカー)の一生で最後の、私達には最も新しい著書を参考にする。
ワイツゼッカーはゲーテ亡き今日のドイツ最大の智者と言われた物理学者、哲学者、宗教家であって、私が京阪奈に国際高等研究所(IIAS)を創設した時、その開所式に招待した人であるが、彼の一生最後の著としてDer Mensch In Seiner Geschichte「人間とは何か」、過去、現在、未来(邦訳:小杉尅次、新垣誠正共訳 ミネルヴァ書房、2007)を出版し、昨年2007年4月28日に95才で逝去した。20年近い交流で大きい悲しみであった。
以下、彼の最も新しい本著に従って考えてみよう。根本的に考えるとは、哲学することである。哲学するとは認識と実行の間に、断固とした垣根を設けて思索を尽くすことである。西洋では、この哲学はギリシャのソクラテスからプラトンに始まる。従って、本格的な、厳格な「哲学者」の定義はギリシャ哲学を追う人である。
しかし、現在、哲学と言っても色々ある。また、哲学者と言っても色々ある。しかし、ワイツゼッカーは哲学の中で本物はプラトンの哲学であると言う。これはワイツゼッカーが初めてでなく、英国の哲学者ホワイト・ヘッド(1861〜1947)も次のように言っている。「よく考えてみるとヨーロッパの哲学は、所詮、プラトンの哲学思想について幾つかの断片的解釈を書きとどめたものにすぎない。プラトンの哲学はおおよそ哲学の中枢であり、他の哲学はプラトンの断片に過ぎない」。この点、東洋哲学も日本哲学もあると言う人もあろう。この場合、世界的に見て言ったのであろう。
このワイツゼッカーの「根本的に考えるとは哲学することである」というのは、納得のいく事であるが、その哲学はプラトンの哲学であるということについては、西洋哲学と限ればその通りであろうが、私の胸中には、常に日本の青年を励まそうという気持ちがある。例えば、人類にとって大きい問題である「近代文明と人類」の問題等に対する解決には、この文明は西洋が本源であるので、解決には、東洋の哲学というものが一役かって出るべきであると考え、日本人としては、この東洋の哲学の重視を中心に考えるべしと思っているので、ワイツゼッカーのように安易にプラトン哲学とは言えない気持ちを持っている。さきに一寸触れた国際高等研究所(IIAS)開所式の時、ワイツゼッカーもこの近代文明の解決には東洋哲学の助けを借りる可能性に触れているのであった。
以上のワイツゼッカーの意見を受けて、私ども日本人としては当時の日本のプラトン哲学の第一人者である田中美知太郎先生がまさにその人であることを思い、その田中先生のお言葉として、敢えて「親孝行と愛国心」を皆様の前に出してみるのである。
次に私は教育を根本的に論じる時は、先ず、「人間とは何であるか」を論じなくてはならないと言った。人間とは何かについて、前述のワイツゼッカーの著作「人間とは何であるか」から、述べてみると、またもやギリシャ哲学の祖、プラトンの師であるソクラテスの「洞窟の比喩」から、詳細を極めている。私にはこの「洞窟の比喩」はよくわかっていないのであるが、ワイツゼッカーの説明とプラトン全集の「国家」の中の説明を辿って考えると次のようであろうか。この比喩の中で人間そのものを表しているのは二カ所。即ち、洞窟の中の燃えさかる火のため壁に映しだされる囚人の影。もう一つは洞窟の外で燦々たる太陽の光の下で自然の中に存在する動物、植物、石や水とあらゆるものと共に人間も存在している。人間はそれらにとり囲まれて輝きつつ存在している。人間は他の自然に比べて新参者かも知れない。従って、本来は他の自然に助けられて存在する者であろう。洞窟の中の人影である人間は人間のみの世界である。しかし、洞窟の外の人間は直接太陽から光(生命)を貰い、他と共に生命を全うする存在である。人間の本当にあるべき姿、そのままの人間である。このような人間をプラトンはイデアと呼び、人間の本来あるべき本当の、真実の存在とみている。影の人間を人間の仮の姿とし、イデアは人間の本当の姿である。この様に存在するものに対して真実の姿と、仮の姿を分けて考えるやり方はソクラテスから始まりプラトンのイデア、アリストテレスのエンテレヒー説、そしてゲーテの源現象(Urph?nomen)と色々あるが、いずれも人間の仮の姿と真の存在、死すべきものと、不滅のものを設定するのは哲学の常である。
ワイツゼッカーは、真実の人間の在り方として、太陽の光のもとに、他の自然と共にある人間に注目して、人間の本性は共生にありとして、「人間は共生を本旨とする生命体である」と定義している。この共生は、この洞窟の比喩のみでなく、その他いろいろと考え、特に私が感じるのは彼の専門の理論物理学の量子力学の世界で共生を考えているのではないかとも思う。共生については、世界のあらゆる方面から注目され、日本でも古くから仏教で「とも生き」と称して、過般黒川紀章君の都知事立候補時のスローガンであった。あれは思いつきではなく、彼の専門の建築学から得たもので独文の論文もあり、一生かけたものである。共生は公共とも通じ、この共生と循環と言う仏教精神については、1989年に京都に設けられた京都フォーラムでは現在、金 泰昌、矢崎勝彦氏が盛んに活躍されていることにも注目せねばならない。なお、京都大学文学部創立百周年記念論文集を見ると、その最後は「共生への問い」となっており、百周年を記念して共生への哲学的研究に向かおうとしている姿勢を感じたことは喜びである。
しかし、私には、共生のみでは他の生命体も同様であって、人間を他のものから区別するのには心の存在が重要であると思って、「人間とは大きい心を持った共生を本旨とする生命体である」と定義することにした。
「心」とは人間の特徴であって、進化論の頂点で生まれたものである。人間がチンパンジーから別れて、大きい心を持つようになったのは500万年前と言われる。新しいことである。進化の初めは突然変異である。突然変異は木村資生の分子進化論から見て中立性である。中立論というのは、色々である。多様なこと、善い心もあれば悪い心もある。私の習った脳の古い学問では、同種のものを殺すことは動物はしない。人間のみが戦争をして、同種の多数を殺す。同種を殺すのは人間のみであることを教えられた。人間が戦争する事は、人間が心を持つ事と関係があると思ってきたが、最近の研究では、同種の殺しあいが動物にも存在する事が確認されており(Konrad Lorenz)、この点では、人間と同様であることが主張されている。その様な人間の心の自然淘汰は少ないことを考えると、突然変異のままで多様であり、善から悪まで、天使から悪魔までもと言われるのは納得がいく。
人間の心の自由というのは、このところから言われるのであろうか。その自由の心を、そのまま放置すれば、人間相互と同時に、自然の多くの動植物との共生を阻害する。「大きい心」としたのは、近時の霊長類の研究でチンパンジーなども人間の心の萌芽のようなものを持っている事が発見されているし、皆様がペットの犬と暮らしても彼らが私達の心を読みとる態度がある事に気が付く。しかし、もっと抽象的、理論的な心の働きは人間特有であるし、その他を考え、人間の心は「大きい」と表現させていただいた。
以上で私が日本では教育の問題を、根本的に考えねばならぬと言い、その根本的にと言ったところを哲学で、しかもプラトンの哲学でと言うなら「親孝行」は、プラトンは如何に考えていたのであろうか。田中先生の第一のお弟子、京大名誉教授の藤沢令夫君は私の友人であるので、田中先生は「親孝行と愛国心」を教育の原点であると教えて下さったが、君の意見はと藤沢君に聞いてみた。親切な藤沢君がプラトンの全集をひもといて教えて下さったところによると、プラトンの全集には至るところに「親孝行」が出てくる。プラトンの哲学というと、さぞ難しい言葉であろうと誰も想像するが、プラトンの哲学は対話であって、日常会話である。論より証拠、その一つ、二つをプラトンの全集からその実際をお目にかけよう。次に挙げるのは田中先生と藤沢君の訳による岩波書店発行のプラトン全集「国家」の一部である。私は今回の入院で持って行ったのは藤沢君の「プラトンの哲学」(岩波書店、1998)一冊のみ。藤沢君が私の入院中に亡くなったのは大きな悲しみである。
さて、プラトン全集、「国家」の部のみから「親孝行」を、そのまま記してみよう。少し長いが誰でもプラトンの対話を直接読む機会は少ないと思うし、それが日常語であること、その内容が現代からみて決して古くはなく、また現在と同様にギリシャ時代にもあったことを知って貰う為と辛抱して貰おう。
『両親をないがしろにせよとは、いかなる神も、また分別のあるいかなる人間も、誰に対してもけっして勧めはしないでしょう』。
『この両親に対しては、最初にして最大の負債、あらゆる恩義のうち最も重い負債を負っているのであるから、それを返すことはとうぜんの掟である。その昔、幼い子供のために費やされた、骨身を惜しまぬ親たちの気苦労や労苦の借りを返し、今は老年の身で必要とするものの多い老人たちに、その返済をすることに他ならない。』
『さらに両親が他界したときは、最もつつましい葬儀が、最もよい。その葬儀は、世のしきたりの荘重さをこえてもいけないし、また、祖先がその両親を葬ったときの荘重さに劣るものであってもならない。』
『もしわれわれがこれらを実行し、こうしたやり方をまもって生活するなら、われわれそれぞれは、いついかなる時も、神々やまた人間よりすぐれた者から、それにふさわしい報いをうけ、生涯のほとんどを幸せな希望のうちに過ごすことになるであろう。』
『父親なり母親なりを殺すことは、どの法律もこれを許しはしないだろうからである。いや、そんなことをするぐらいなら、ありとあらゆることを耐え忍ばねばならぬと、法律は規定するだろう。・・・だから、激情にかられて父親なり母親なりを殺した者には、その刑罰は死刑ということにしておこう。』
『もし誰かが、この国において両親を不当にないがしろにするなら、そして何ごとにつけても、子供たちや、自分の子孫の者全部や、また自分自身の望みの方を重んじて、両親の望みをかなえてやろうとしない場合には、そのような目にあわされている親は、自分自身ででも、あるいは誰かを使いに立ててでも、その事実を護法官のなかの最年長者三人のところか、または結婚の世話役をつとめる婦人たちのなかの〔最年長者〕三人のところへ通報すべきである。そしてこれら役人たちの方は、その苦情をとりあげて、その不当な仕打ちをしている者がまだ年の若いものであれば、すなわち、男の人であって30歳未満の年齢のものであれば、鞭刑と監禁によって懲らしめるべきである。また、それが女の人である場合には、40歳までの者なら、同じ懲罰を受けさせるべきである。しかし、それらの年齢を越えていながら、親に対して同じようにないがしろの行為をつづけている者がいるなら、また場合によっては親たちを虐待している者がいるなら、全市民のなかの最年長者、101人によって構成される法廷へ、その者を連れ出さねばならない。』
『しかし、もし誰か親が、虐待されていながら、そのことを当局へ申し出ることができないでいる場合には、その事実を耳にした自由民は誰でも、役人たちへ通報しなければならない。そうしない場合には、その者は「悪しき市民」とみなされるべきであり、誰でも欲する人によって、〔親に〕損害をあたえたかどで、告発されるものとする。』
この様な記事はプラトンの対話の中に沢山出てくるのであるが、その中に現代と同じ様な子の親殺し、親の子殺しがギリシャ時代にもあったことは全く一驚である。プラトンの対話の内容は古くない。現代と同じ問題を論じていることを知って頂けたと思う。人間万事、現在の事と思っても昔からあり、日本だけと思っても世界中にある。物を考えるとき、世界的に、歴史的にしっかりと考えることが大事である事を痛感する。
それでは親孝行は宗教ではどう扱われているか。世界宗教の創始者、いわゆる枢軸時代のソクラテス、釈迦、孔子、キリストは何と言っているか。
その宗教では、キリスト教、イスラム教では、モーゼの十戒の第7条「汝の父母を敬え」とある。儒教・孔子の仁は、ずばり親孝行そのものである。その詳細は加地伸行氏の著「儒教とは何か」(中央出版社 1990)に徹底的に説明してある。私は幸いにも晩年の安岡正篤先生に師事する事が出来たが、先生は「孝経入門」を出版されている。仏教には「父母思重経」がある。即ち「親孝行」は凡ての世界宗教の教えるところである。佛教と儒教の影響を強く受けている日本人には納得がいく。
それでは最後に私の「人間は大きな心を持った共生を本旨とする生命体である」の観点から親孝行を見てみよう。
人間は生まれる前は母体の一部であって、母体と共生。生まれた瞬間に肉体的に初めて独立して、これを生物学的にはヒトと呼ぶ。そのヒトが母親に育てられて、母はヒトにとって初めて他に自己の願望を訴える対象として認識する人間である。その認識は小さくても、心の萌芽によるものであって、この意識が生じたヒトを人間と呼ぶ。すなわち母はヒトを人間にする最初唯一の人間である。ここで、初めて新しい人間が生まれる。母のその子供に対する愛情は、一つの本能であって、性欲や食欲と同様、生得的なものである。子供の方もまた可愛がられるようにできている。私の今回の入院中で、一番強く感じたのは、リハビリに来ている赤ん坊の顔の可愛らしさであった。私はかねて、子供は独立出来ない間は、可愛がられるように出来ていると考えていたが、入院中の子供の顔は100%可愛い子であった。母親は子供を可愛がる。可愛がられ、可愛がられて子供は育っていく。愛を浴びれば愛を返す。感謝は愛に対する相手への自然な感情である。共生の心とも言えよう。ヒトが人間になる最初の役を果たすのが母親である。その次は父親、兄姉、弟妹、そして祖父母、即ち家族、家庭である。人は人を浴びて人間となる。
それには家庭の在り方が大切である。家庭の在り方と言えば夫婦相互の愛情の問題である。夫婦の愛は男女の愛、結婚の重大性を思う。近時、毎日のニュースには親の子供への虐待が多く報じられている。その原因を辿ると親が子供の時、その親から充分な愛を受けていない。私はこのところ、長く毎日新聞記事のコンクールの審査をしているが、本年は子供への虐待の実際を詳細に報道したものが多かった。母親であることの重大さを物語る愛と言い、感謝と言ってもおおよそ人間の心の問題である。
以上のように「人間とは何か」と言うとき、心については多くの問題が残る。ここに初めて教育が生まれる。教育とは、その自由な心を自然との共生の方向に向けようという先人の経験による営みであると思う。従って、教育はあってもなくてもよいものではなく、人間が共生する為には、人間が人間である為には不可欠なものである事がわかる。その教育の中に、前述の人間共生の実態である、親の愛に対する子の感謝が入るのは当然である。親孝行は人間存在の方向を決める一つの重要な営みである。
この共生を本旨とする人間が、個人と個人の関係から家族・村・都市、そして国を創り、その国々が集まって、世界人類を作ることについては、ギリシア古来より、プラトン、アリストテレスからそれ以後の哲学者の凡てが主張するところである。これが、人間は類的存在と呼ばれるものであって、私自身、ヘーゲル哲学から強い感銘を受けたことがある。ヘーゲルの人間の類的存在の理念は、彼の著、「精神の現象学」(Die Ph?nomenologie des Geistes,1807)である。ここで詳述するまでもなく、皆様ご承知のことであろうが、不学の私にとっては、この認識は、私の生涯で最大の驚きであった。「われのわれわれ、われわれのわれ」という言葉は人間存在の真髄であろう。
以上で、教育を根本的に考えたときに、田中美知太郎先生の親孝行が、プラトンの対話から言っても重要なものであること。それは古い話でなく、現代の実情を語っていること。また、世界の宗教はどれもこれも皆、親孝行を主張し教えていること。そして、親孝行は人間実在の三段階である家庭、国家、世界(人類)の、最初にある家庭の中心から出発するものであることは明らかになったと思う。
最後に「人間は大きな心を持った共生を本旨とする生命体である」との私の人間定義から言っても、「親孝行」は全く決定的な人間の在り方を示す。以上から、「親孝行」は古い言葉でもなく、人間存在の在り方についての第一歩であることを理解して頂けたと思う。